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なぜ消防職員に発達傾向の人が多くなるのか|「適応」が再生産される組織の構造的問題

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「適応すること」が示すのは、能力ではなく組織の構造かもしれない

 本サイトでは、これまでに以下の2本の記事を通じて「消防職員に発達傾向の人が多くなる構造」について取り上げてきた:

そこでは、以下のような仮説を提示してきた。

 本記事では、その続編として、このような“適応”がなぜ生まれ、どのように再生産されているのかを、さらに掘り下げて考察していく。


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第1章:なぜ発達傾向の人が「適応してしまう」のか

 消防という仕事においては、「指示を守る」「同じことを反復できる」「余計なことをしない」という行動特性が高く評価される。

 一見すればそれは「真面目で忠実」と評価される態度だが、裏を返せば、マニュアル外の対応力や対話力、感情の察知能力は求められていないとも言える。

 ASD(自閉スペクトラム症)傾向のある人は、こうした「構造化された世界」に安定感を感じやすい。消防の世界は、ある意味でその最たるものである。

 つまり、「空気を読む力」「文脈を柔軟に解釈する力」「自分の考えを言葉にして交渉する力」が低くても、表面的には“支障がないように見える”。

 むしろ、そうした能力が高くても「考えすぎる」「余計なことを言う」「上司に意見する」などの形で組織から“浮いてしまう”ことすらある。

 その結果、適応できない人は去り、適応できる(ように見える)人だけが残る。つまり、消防という組織は自然淘汰的に「そういう人たちで構成される場」になっていく構造を持っている。

 しかしここで重要なのは、「適応した=問題がない」ということではない。

実際には、こうした“適応”は、

といった特徴を、訓練された結果ではなく、そのまま放置されている結果である場合が少なくない。

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第2章:「構造が人を選ぶ」採用と教育の無意識な選別

 消防職員に発達傾向のある人が「多くなる」理由は、単にそうした人が消防に応募するからではない。組織の構造が、そうした人を“選びやすく”“残しやすく”しているからである。

たとえば、採用試験を見てみよう。

 消防職員の採用にあたっては、筆記試験・体力試験・面接が基本であり、その中でも特に重視されるのは「体力」と「協調性」「規律性」である。これはつまり、

といった「秩序順応性」が評価基準になっているということだ。

このような選抜方法では、「空気が読めない」「自分の考えを言葉にするのが苦手」といったASD傾向のある人が不利になるように見えるかもしれない。だが、現実には逆である。

 ASD傾向のある人は、「マニュアルに沿った行動」「ルール順守」「寡黙だが真面目」といった振る舞いを意識的にでも無意識的にでも再現することができる。面接で多くを語らず、体力試験で安定した成績を出し、ルールに忠実な印象を与えることができれば、十分に合格圏内に入る。

そして、初任教育でも同じような傾向がある。

 このような訓練体系では、自分の考えで動くよりも「型どおりに動けること」が正義になる。そして「自分の感情を表に出さない人間」が“安定している”“落ち着いている”と誤認されやすくなる。

 つまり、初任教育とは、本来であれば多様な特性を見極めて適切な適性配置を行う場であるべきなのに、現実には「どれだけ型にフィットできるか」を測る場になっている。

そして当然のことながら、型にフィットしない人、つまり

 といった“人間らしい”側面を持つ人たちは、ここで落ちこぼれていく。そして、「感情を見せない」「上司に逆らわない」「違和感に気づいても黙っている」人だけが残る。

 このような選別が、組織の内側から「感情と対話を欠いた人材構成」をつくっていく。そして、それが新たな基準となり、次の世代にも同じ傾向が選ばれていく。

 要するに、これは偶然ではない。構造が人を選び、再生産しているのである。

 そして忘れてはならないのは、その“選ばれた人たち”が「優れているから残った」のではなく、「構造にフィットしたから残った」だけであるという事実だ。

 それを「真面目」「安定している」「頼れる」と評価し続けている限り、組織は変わらず、違和感を抱く人の方が“異常”とされる風土が温存されていく。

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第3章:感情と対話の欠落──その影響が現れる場所

 組織の中に、発達傾向のある職員が「自然に多くなる構造」があるとすれば、その影響は、いずれ職場のあらゆる場面に現れる。特に顕著なのが、「感情」と「対話」に関わる場面である。

たとえば、市民対応──

 通報者が不安な気持ちで119番をかけたとき、求めているのは「機械的な対応」ではない。
心配に寄り添い、状況を共に確認してくれるような、**“人間的な反応”**だ。
しかし、現場の一部ではこうした対応ができず、苦情や不満に発展することがある。

「早く要件だけ言ってください」
「それはあなたが判断することじゃありません」

 実際に市民から寄せられる声の中には、こうした“突き放した”対応への違和感がある。
これは、単にマナーの問題ではない。感情のやり取りそのものが職場文化に希薄であることの現れである。

あるいは、同僚との人間関係──

 ASD傾向をもつ職員は、悪気なく相手を不快にさせたり、空気を読まずに指示を出したり、逆に場の空気を過剰に怖がって意見を一切言わなくなったりすることがある。
だが、周囲はそれを「人柄」として処理する。
誰も明確に問題視しないまま、微細なすれ違いとストレスが蓄積されていく。

 また、ASDがASDを互いに評価しあうという構造もできてくる。

やがてそれが、職場内のヒエラルキーに反映される。
「文句を言わず、静かにしている人」が昇任し、
「現場でおかしいと思ったことを言葉にできる人」が評価されない。

そして最も深刻なのが、指導・管理の場面だ。

上司が、部下のミスや態度に対して怒鳴る、無視する、執拗に追及する──
これらが「指導」とされてしまうのは、そこに感情理解の欠如があるからだ。

そういった思考が抜け落ち、ただ「正解と違うから叱る」という態度だけが繰り返される。ものごとの理屈理論について説明できるだけの人は残らないからである。

 本人にその意図がなかったとしても、結果的に「発達的傾向を持つ上司が、他者の感情を理解せずに指導する」という構図になれば、それはハラスメントの温床となる。

こうして、組織内に「感情のない正しさ」だけが残る。

 すると、現場では「正しいことをしていれば、相手の気持ちはどうでもいい」という風土ができる。
上司は「間違った行動は叱るべきだ」と言い、部下は「黙って従うのが正解だ」と思い込む。

その結果、誰も言葉を交わさず、理解し合おうとしない職場が出来上がる。

 これまで扱ってきたさまざまな不祥事やトラブル、SNS問題、救助活動中の判断ミス──
その多くは、「何が起きたか」よりも「なぜ、そこに“対話”がなかったのか」を問うべき事例だった。

発達障害の傾向そのものが問題なのではない。
それが「向いている」とされ、無批判に温存される構造こそが、最も危ういのである。

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第4章・総括:「構造が選び、構造が育て、構造が壊していく」

 ここまでの考察を通じて見えてくるのは、消防という組織がある種の発達特性──特にASD(自閉スペクトラム)傾向のある人を、「自然に集め、自然に育て、そして自然に歪ませてしまう」構造を持っているという事実である。

この構造は、意図的につくられたものではない。誰かが「発達傾向の人だけを採用しよう」と思っているわけではないし、「感情のない人が上司に向いている」と明言されているわけでもない。

むしろ、組織の表向きは「協調性を重んじ、感受性のある人材を育てよう」と謳っている。

だが、現実に起きているのは、その正反対である。

そして気がつけば、現場には「自分の感情を持たず、他人の感情を理解しない人たち」が揃っている。
これは偶然の集積ではない。構造による必然的な選別である。

組織にとっては、「命令どおりに動く人材」は一見ありがたい。
だが、本来の意味での消防という仕事──市民の不安に寄り添い、混乱する現場で判断し、人と人とをつなぐ活動──には、人間的な感性や柔軟な思考、感情理解の力が欠かせない。

その土台を欠いたまま、いくら立派なマニュアルや訓練制度を整えても、根本的な問題は解決しない。

しかも、この構造は「向いている人だけが残る」のではなく、「向いていない人を排除する」機能も持っている。

その結果、職場には「従順な沈黙」だけが積み重なり、
少しずつ、確実に、“考えない組織”が出来上がっていく。


 このテーマにこだわってきたのは、「発達傾向の人が多い」という事実そのものを批判したいわけではない。
 そうではなく、その傾向を「適応」と見なし、「むしろ好ましい」と評価してしまう組織の側の無自覚さを記録しておきたいからだ。

発達特性のある人は、社会のどこにでもいる。
そして彼らが力を発揮できる環境を整えることは、今後のすべての組織にとって不可欠である。
だが、消防という特殊な組織においては、それが逆方向──「異質なものを排除し、均質で無自覚な組織をつくる」方向に働いている危険がある。

この問題の本質は、福祉ではなく構造の問題であり、
人間性の否定ではなく、「組織が人間性を受け入れる構造を持っているか」という問いなのだ。

そして今の消防組織には、それが決定的に足りていない。

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