犬山市で発生した救急車の「インロック」事案
2025年4月、愛知県犬山市で、救急車が出動先で「インロック」状態となり、患者の搬送が遅れるという事案が発生しました。さらに、スペアキーを届けるために出動した隊員が、搬送予定だった病院へ向かうという二重のミスが重なり、患者の搬送が大幅に遅延しました。
このような事案は、消防組織の基本的な業務遂行能力に疑問を投げかけるものです。救急車の鍵の管理や、スペアキーの取り扱いに関する明確な手順が存在しない、あるいは徹底されていないことが原因と考えられます。
ミスがミスを呼ぶ組織体制
この事案は、単なる一時的なミスではなく、組織全体の問題を示唆しています。救急車の「インロック」という基本的なミスに加え、スペアキーを届ける隊員が搬送予定の病院へ向かうという二重のミスが発生しています。これは、情報共有や指示系統に重大な問題があることを示しています。
また、救急車や消防車両の仕様書は容易に入手可能であり、鍵の管理やスペアキーの配置に関する標準的な手順が存在するはずです。それにもかかわらず、個人的な判断や点数稼ぎのために独自の方法を採用し、結果としてこのような事案が発生した可能性があります。
消防組織の適格性と信頼性の問題
今回の犬山市での「インロック」事案は、消防職員の職務適格性について改めて問う契機となった。もしこれが、お笑い番組のコントだったならば、多少の笑いを誘うものになったかもしれない。しかし現実に起きたことは、患者の搬送という一刻を争う現場での、致命的な判断ミスの連続である。
一連の流れを見る限り、「ミスがミスを呼ぶ」連鎖が発生していることが明らかだ。出動中の救急車がロックされた状態で放置され、その後スペアキーを届けるはずの職員は搬送先の病院へ向かってしまう。これは、あまりにも頓珍漢で、通常の組織では到底あり得ない初歩的なミスである。まさに、無意識のうちに“道化”となってしまっているかのような姿であり、適格な職務遂行能力が欠如しているというほかない。
消防職員とは、極限状況で冷静かつ迅速に判断し、行動することが求められる職業である。その中で、このような信じがたい連続ミスが発生するということは、個人だけの問題ではなく、組織的な判断力や訓練の在り方、そして根本的な体制の甘さを物語っている。
組織全体の責任と人事配置の問題
この問題は、現場にいた職員のミスとして片付けるべきものではない。本部で事務職として働く、いわゆる“頭脳派”の職員たちの判断や管理責任も極めて重大である。車両の装備や鍵の仕様に関する知識は、少し調べれば誰でも手に入れられる。にもかかわらず、合理的な判断を下さず、見せかけの改革や、点数稼ぎのような仕様変更を進めた結果、今回のような事態が発生した可能性は否定できない。
仮に、鍵の本数を削減していたとすれば、明らかに業務上のリスクを高める行為であり、現場の利便性や安全性を犠牲にしてまで、自己満足に陥っていたと指摘せざるを得ない。さらに、そのような職員を適切に評価・管理できなかった人事部門の責任も重大である。
「救急隊は忙しい」というイメージが一定の防波堤として機能してきたが、実態はどうなのか。今回のような失態が明るみに出たことで、「本当に必要な活動をしているのか」という根源的な問いが浮かび上がってくる。一部の業務に過度な正当化を加えながら、内実を見せない体質こそが、こうした組織的なミスを温存させている要因でもある。
信頼を蝕む慢性的な組織的欠陥
犬山市で発生した「インロック事件」は、たまたま発覚した一件に過ぎない。氷山の一角として捉えるべきであり、同様の失策が他地域でも頻発している可能性は否定できない。むしろ、表に出てこないだけで、これまでも似たような事例は多数あったのではないか――。そうした疑念を市民に抱かせること自体、すでに消防組織が抱える「慢性的な信頼欠如」の兆候である。
本来、消防や救急といった公共の安全に関わる職種は、社会の中で最も高い倫理性と実行力が求められる存在である。それゆえに、ちょっとしたミスや判断の誤りが、大きく報道され、社会的非難を浴びることとなる。しかし、その責任の重さを自覚しているかどうかすら疑わしい職員が、組織内に存在し、それが容認されているという事実が、深刻な問題である。
また、こうしたミスが発生しても、迅速な検証や説明がなされるわけでもなく、まるで「誰かがどうにかしてくれる」かのような他人任せの態度が組織文化として根付いてしまっている節がある。このような構造が、消防という組織の信頼をゆっくりと、しかし確実に蝕んでいく。
意図せぬ「免罪符」となり得る“忙しさアピール”
消防や救急に従事する職員たちは、しばしば「忙しさ」を盾に責任回避を試みる。確かに、厳しい勤務体制の中で、過酷な現場に対応している職員も存在するだろう。しかし一方で、今回のような初歩的なミスを前にしたとき、「忙しかったから」という言い訳は、果たしてどれほど通用するのだろうか。
この「忙しい」というイメージは、世論からの批判を回避する“免罪符”として長年機能してきた。しかし、それに甘んじて本来果たすべき職務や責任を放棄しているような実態が明るみに出た時、信頼の土台は一気に崩れ去る。市民は、命を預ける存在に対して、最高レベルの信頼を寄せている。その期待を裏切った代償は極めて大きい。
今回の犬山市消防の一件は、単なる笑い話で終わらせてはならない。日常的に命を扱う現場で、無意識に起きた“お粗末すぎる”連続ミスは、組織の根幹にメスを入れる必要があることを物語っている。そして、その根本的な問いは、「そもそも今の消防組織は信頼に足る存在なのか」ということに行き着く。