「興味本位で…」内示前の人事案を漏洩した消防幹部が減給処分に
2025年7月、長崎県平戸市消防署に勤務する副署長(52)と当時の署長(59)が、内示前の人事異動案を漏洩したとして減給処分を受けた。
報道によれば、副署長は消防局上層部の机に置かれていた異動案をスマートフォンで撮影し、複数の職員にLINEや口頭で内容を拡散。副署長は減給10分の1・4か月、署長は同10分の1・1か月の処分が科された。
副署長は興味本位でやってしまったと述べており、事実として組織外部への漏洩ではなかったとはいえ、職務上知り得た情報の取り扱いに対する認識の甘さが厳しく問われる事案であることに変わりはない。
消防局長は「組織の信用を損なう重大な事案」と述べているが、より本質的に問うべきは、なぜこのような漏洩が起きたのか、そしてそれを組織が未然に防ぐことができなかったのかである。
消防組織が“人事情報”を神格化しすぎていないか
消防に限らず公務組織では、人事異動案の取り扱いは極めて慎重に行われる傾向がある。
しかしながら、今回のように、「誰がどこに異動するか」という情報が撮影・拡散されることが重大事件として扱われる一方で、その配置に対する説明責任はほぼ語られないという構造に、疑問を抱かざるを得ない。
人事配置とは、職員の人生を動かし、チームの空気を変える力を持つ行為である。
それにもかかわらず、配置責任を負うべき人事担当者は、その配置が原因で生じるトラブルや不和に関して一切の責任を問われないのが現実だ。
例えば、長年真面目に勤務してきた職員が、相性の悪いメンバーと組まされただけでパワハラの加害者にされるような事態が起きたとしても、配置を決定した側には何の説明責任も発生しない。
それでいて、漏洩という形式上の違反に対しては迅速かつ重い処分が下される。
このアンバランスな運用こそが、人事を神聖不可侵な特権として扱いながら、中身については誰も責任を取らないという腐敗の象徴なのである。
「配置責任」は誰が負うのか?誰も負わない組織
本来、職員配置は現場での働きやすさや隊員同士の相性を考慮して行われるべきである。
だが現実には、上司の個人的感情や過去の指導歴によって左遷に近い異動が行われることもある。
そしてその異動が職場環境を破壊し、パワハラや不適応、モチベーション低下を生み出しても、人事担当者は責任を問われることはない。
むしろ、そうした失敗があっても、「あいつが勝手におかしくなった」「適応できなかっただけ」と、職員個人の問題として処理されるのが常である。
その一方で、人事案を漏らした者は組織の秩序を乱したとして減給処分を受ける。
つまり、内容には責任を持たず、形式には過剰に罰を与えるという二重基準が平然と成立しているのである。
本来あるべき運用:「人事案」は責任者にパッケージで渡せ
もし本気で責任の所在を明確にしたいのであれば、消防署長や副署長といった現場管理職に「人員パッケージ」を与え、その中で最適な配置を任せる運用が望ましい。
そうすれば、「この人事でトラブルが起きたらあなたの責任だ」「この配置は現場でどのような意味を持つのか」という具体的な責任構造が成立する。
しかし現在の運用は、逆の構造になっている。
- 責任は一切負わない人事課や幹部が配置を決定し
- その配置の悪影響を背負わされるのは現場の管理者や職員である
- 文句を言う者は「異動の理由をつけて」冷遇される
この構造を放置したまま、「人事情報を漏らしたのはけしからん」「秩序を乱したから減給処分」などと言っても、根本的な信頼は得られない。
むしろ、人事案が漏洩するたびに騒ぎになるのは、誰も説明できない恣意的な人事が存在することを、無言で証明してしまっているとも言える。
「漏らすな」だけが徹底され、内容への責任は問われない
消防に限らず、公務員組織では情報管理が強調されるあまり、情報そのものの「内容」や「正当性」には誰も触れようとしないという不自然な運用が見られる。
「職員の異動案を漏洩した」と聞けば、それだけで大事件に聞こえる。
だが冷静に考えれば、漏らされた情報とは、誰がどの部署に異動するか、という内部だけの配置内容に過ぎない。
それがなぜこれほど厳重に秘匿され、なおかつ漏らした者だけが処罰されるのか。
その理由は明確だ。
内容そのものに不透明さや不公正さがあるからこそ、漏洩が致命傷になるのだ。
人事の正当性に自信があるのであれば、情報が漏れたところで何の問題もないはずである。
ところが現実には、「なぜこの職員がここに異動したのか」「なぜあの人があの部門に外されたのか」など、説明しようとすると内部矛盾が露呈するような人事が存在している。
だからこそ、人事情報は絶対に漏れてはならない神聖な存在として扱われる。
それは決して職員保護のためではない。
不都合な事実が外部に知られることを恐れる、組織防衛のために守られているのだ。
人事を「罰」として使う体質が、漏洩を生む
消防組織の人事が批判されるべき最大の理由は、それが報酬ではなく「罰」として運用されている点にある。
- 文句を言ったら遠隔地へ飛ばす
- 意見を述べたら苦手な上司の下に配置する
- 飲み会を断ったら昇進コースから外す
- パワハラ被害を訴えたら、同じ部門で干される
こうした運用が公然と行われてきた現実がある。
職員が最も恐れるのは「降格」や「減給」ではない。
次の異動で変な場所に飛ばされることこそが最大の制裁であり、それが現場の空気を支配している。
そうした中で、誰がどこに異動するのかという情報は、まさに力関係の可視化であり、心理的な武器にもなる。
それゆえに職員の間では常に人事情報が注視され、「誰が外されたか」「誰が近づいているか」という噂が飛び交う。
それを一足早く知りたいという感情が働くのは、個人の興味本位というより、むしろ組織の風土が生み出している当然の反応である。
今回の漏洩も、こうした「配置がすべてを決める」「異動が制裁となる」消防内部の文化が温床になっていたと考えるべきである。
「人事の神」になりたい管理職たち
消防組織では、人事を通じて部下の生殺与奪を握ることに快感を覚える者も少なくない。
特に幹部クラスになると、「あいつはおれが育てた」「おれの判断であの現場に送った」などと、人事権を功績と誇示の道具として使う傾向がある。
そうした神様ごっこが横行する一方で、配置の失敗や現場でのトラブルが発生しても、その責任を問われることは一切ない。
- 部下同士の不和を引き起こした配置でも、責任は本人たちに押しつけ
- パワハラが発生しても、「気づかなかった」「現場の問題」で済まされる
- 指導が機能しない配置でも、「成長させるためだった」と言い訳される
こうして責任は下に、成果は上に集約されていく。
その一方で、情報の流出には容赦なく罰を下すことで、人事の透明性に踏み込ませない空気がつくられている。
本当に処分されるべきは誰なのか
今回、内示前の人事案を漏洩したという理由で、副署長と署長が減給処分を受けた。
形式的には妥当な処分に見えるかもしれない。
だが、人事案を写真に撮ってLINEで送った者は処分され、肝心の人事を決めた者は誰も責任を問われないという構造が続く限り、問題は何も解決しない。
そもそも、「興味本位で撮影した」と認める副署長がいる一方で、管理職としての監督責任しか問われていない署長。
そして、署長・副署長以外の幹部クラス、実際に人事案を起案・承認・決裁した人物たちは、誰一人処分対象になっていない。
「秩序を守らなかった者」だけを罰し、「内容に対して無責任だった者」には一切手をつけない――これが現実の消防組織である。
まとめ
平戸市消防署における人事情報漏洩事件は、単なる副署長の「興味本位」ではなく、人事を神格化し、責任の所在をあいまいにしたまま権限だけを握ろうとする組織体質が生み出した必然的な結果である。
責任を持って配置すべき人間が、それを放棄し、逆らう者には冷遇人事。
それを見て職員が人事情報に過敏になり、興味本位で情報を広げる。
そして処分されるのはその末端のみ。
これが今の消防本部の実態だ。
人事という権限を持つ者が、自らの手でその責任を引き受ける仕組みが整わない限り、同じ問題は今後も繰り返される。
そして次に処分されるのもまた、組織の構造に苦しむ者たちかもしれない。