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消防組織に染みついた沈黙の共犯関係──山鹿市消防本部「マッサージ強要」パワハラ認定の裏側

山鹿市

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山鹿市消防本部でのパワハラ事案──ニュースの概要整理

 熊本県山鹿市消防本部で、上司からマッサージを強要され続けていたというパワーハラスメントが明らかになった。この被害を訴えた元消防士(当時30代)は、長期間にわたって心身の不調を訴え退職に追い込まれたが、その後の審査で、公務災害に認定されたと報じられている。

 報道によれば、問題の発端は「上司による度重なるマッサージの強要」であり、これが精神的苦痛を生み、うつ状態に陥る原因となったという。消防組織内での人間関係の強制、上下関係の悪用、無自覚な職場文化──そういった要素が、この事案の背景にあったとされる。

 注目すべきは、公務災害認定がなされたという点である。つまり、元消防士の発病と勤務中の出来事とのあいだに明確な因果関係があると、第三者機関である地方公務員災害補償基金が判断したのである。これは、決して軽視できる話ではない。


勘違いだらけの「パワハラ認定」論──現役消防士たちの無理解

 Yahoo!ニュースのコメント欄では、自称現役消防士を名乗るアカウントから多くの書き込みが寄せられている。その多くが、「これがパワハラで公務災害になるのはおかしい」「マッサージくらいで…」といった、まるで事情を理解していない、または理解しようとしない反応で埋め尽くされている。

 問題は、こうしたコメントの文体や内容から察するに、それらが本当に消防関係者である可能性が高いことにある。つまり、現役消防職員の中に、「公務災害」や「パワハラ」の定義や構造を理解できていない者が相当数存在していることが露呈しているのだ。

 まず、今回の認定は「パワハラそのものが公務災害とされた」わけではない。認定されたのは、あくまで業務上の出来事によって生じた健康被害に対して「業務との因果関係があった」とされたという一点である。パワハラの有無を司法が確定したわけではないし、刑事的な処分があったわけでもない。

 このことを理解していないコメントが多すぎる。

 「自分も腰痛があるが公務災害にならないのはおかしい」といった比較は本質的にズレていることと似ている。腰痛のような慢性的かつ多因子的な疾病とは異なり、今回の精神疾患には明確な誘因(マッサージ強要による継続的なストレス)が存在しており、そこに医学的因果関係が立証されたからこそ認定に至ったのである。


公務災害認定は単なる「事務手続き」ではない──実態は政治的な駆け引き

 消防職員が病気や負傷で業務に支障をきたした場合、それが公務によるものであると認定されれば「公務災害」となる。だが、その認定には多くの“裏側”が存在する。

 実際のところ、公務災害の認定は極めて慎重かつ政治的なプロセスで行われる。申請者が一人で出して「試しに申請してみた」などという事例は稀である。

 通常、所属長や消防長の意見書が添えられ、その内容が審査に強く影響する。つまり、現場の管理職が「これは公務によるものではない」と言えば、その時点で認定は困難になる。

 この構造があるため、今回のようなケースで認定が下りた背景には、相応の圧力や弁護士の介入があったと考えるのが自然である。

 職場がパワハラと認めない限り、被害者は公的救済にすらアクセスできない。それを打開するために、外部の法的手段を使い、消防本部と基金の間で「認定せざるを得ない」状況を作ったのではないか──そのような見立ては非常に妥当だ。

「消防本部が虚偽書類を出すか、正直に書類を整えるか」という二択に迫られた場合、内部告発や将来的な法的責任のリスクを避けるため、後者を選んだのだろう。つまり、今回の公務災害認定は、制度の適正な運用というより、訴訟リスクを避ける“落とし所”として選ばれた可能性が極めて高い。


沈黙する職場、共犯の構造──「当たり前」の中に潜む支配関係

 さらに深刻なのは、今回の件が「氷山の一角」であるという点だ。マッサージ強要という非合理な業務が日常的に存在し、それに異議を唱えることができない職場環境が、長年にわたり維持されてきたこと自体が異常である。

 「暗黙の了解」や「先輩の指示には逆らえない」という構造は、消防組織に限らず多くの公務職場に根深く残っている。しかし、消防という命に直結する職種において、それが未だに放置されていることには、強い疑問を感じざるを得ない。

 しかも、現場の職員たちはその異常さを理解していないばかりか、被害者に対して「そんなことくらいで」「甘えている」と非難する側に回っている。組織の「常識」が社会の「非常識」と乖離していることに気づいていないのだ。

 被害者が訴えるには、極めて大きな勇気とリスクが必要である。それを支える制度と認識が組織内に欠如している現状は、まさに“共犯関係の沈黙”が支配している証拠だろう。


消防本部という「閉じた系」が孕む制度的な危うさ

 消防本部の組織構造は、ほぼ完全に内部で完結している。採用、昇任、異動、懲戒、内部通報──すべてが同じ系の中で処理され、外部からの独立性が乏しい。そのため、今回のような問題が表面化するのは極めて稀であり、多くのケースは闇に葬られている可能性がある。

 また、公務災害基金自体は公正中立な審査機関として機能しているが、実際の運用においては、消防本部側が「公務災害として認定されそうかどうか」を事前に探る体質や、認定されないと見込んだ案件をそもそも申請しないという姿勢が横行していることが問題である。こうした事前調整によって、基金に届く案件自体が厳選・操作されている現状があるとすれば、それは制度の中立性ではなく、申請側の自己検閲によって支配されているに等しい。

 今回、弁護士の関与があったからこそ公務災害認定に至ったとすれば、それは制度の正当性ではなく、外圧による例外的処理に過ぎない。つまり、「声を上げられた者だけが救済され、沈黙した者は切り捨てられる」という構造が、制度の本質になってしまっている。


終わりに──“これはまだマシだった”という事実

 幸いにして、今回の被害者はご存命であり、法的手続きによって一定の救済を得ることができた。しかし、こうした案件が「報道された」時点でレアケースであることが逆に恐ろしい。

 どれだけの数の消防職員が、理不尽な命令や精神的支配を受け、それを当たり前と受け入れてしまっているのか。どれだけの人が、訴えることを諦め、黙って辞めていったのか。

 そして最大の問題は、加害者でも被害者でもないの職員が見て見ぬふりをしているという事実です。ヤフコメ欄にも「現役消防士です。私の消防本部でも同じようなことが起こっています。全然改善されません」というようなコメントがあふれています。

 つまりこれは、「私はパワハラもセクハラも見て見ぬふりしてまーす!私は無関係でーす!」という自己紹介にほかなりません。

 この国の消防組織に根づく“文化”の正体とは、規律でもなければ伝統でもなく、ただの支配と沈黙の連鎖である。今回の事案は、それを白日の下にさらす、数少ない“証拠”のひとつであるに過ぎない。

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