近年、地方自治体で消防音楽隊の解散や休止が相次いでいる。報道によれば、埼玉県の秩父消防本部は2023年3月、群馬県の太田市消防本部は2024年3月に音楽隊を解散した。これらの背景には、救急出動の増加により練習時間が確保できないことが挙げられている。
業務多忙の実態とその誤解
消防音楽隊の解散理由として「業務多忙」が挙げられているが、実際にはその実態は異なる。多くの消防本部では、救急出動件数が増加しているものの、1日あたりの出動件数は数件程度であり、練習時間を確保することは可能である。このような状況で「業務多忙」を理由に音楽隊を解散するのは、組織の都合によるものであり、実際の業務量とは乖離している。
消防音楽隊の演奏レベルとその問題点
消防音楽隊の演奏レベルについても問題がある。警察音楽隊は都道府県単位で組織されており、外部の演奏者を採用するなどして高い演奏レベルを維持している。一方、消防音楽隊は市町村単位で組織されており、人数も限られているため、演奏レベルが低い傾向にある。また、演奏の要請も少なく、自前のイベントでの演奏が大半を占めており、固定客も多くない。
予算の使途とその不透明性
消防音楽隊の運営には多額の予算が投入されているが、その使途については不透明な点が多い。現役時代に予算を理由に音楽隊の廃止を打診したが、予算を理由には廃止できないとの一点張りで、税金が投入され続けていた。このような状況は、組織の予算運用の在り方に疑問を投げかけるものである。
存在意義の見直しと“なんとなく続ける”という空気
消防音楽隊が果たしてきた役割としては、地域イベントでの演奏、防火啓発活動の一環、式典でのセレモニー対応などがある。確かに、かつての時代には一定の存在感と役割を担っていたのは事実だろう。
しかし、現代においてその存在意義を問い直すと、「本当に必要か?」という疑問が生まれる。演奏の質が高く、多くの市民が待ち望むイベントであればまだしも、実際には身内のイベント、消防の記念式典、年1回の演奏会といった、ごく限られた範囲の活動に留まっているのが実態だ。
しかも演奏レベルは、警察音楽隊とは比べものにならない。都道府県単位で組織されている警察とは違い、消防は市町村単位。人員の母数が圧倒的に少ないうえ、そもそも音楽演奏が専門ではない職員が片手間で参加しているケースも少なくない。
これはもう、「伝統だから」「無くすのは忍びないから」といった感情的理由で維持されているに過ぎない。要請件数は少なく、固定ファンも少なく、演奏者本人たちのモチベーションもまちまち。それでも廃止されないのは、まさに“惰性の文化”の象徴と言ってよい。
「多忙だから練習できない」は言い訳にすぎない
今回、消防音楽隊の解散・休止に関して“救急出動が増えて練習ができない”という説明がなされたが、これは明らかなプロパガンダである。繰り返し述べてきたが、消防が主張する「多忙」は、実態と大きく乖離している。
1日あたり数件の出動を「多忙」と言い張り、片手間でできる演奏練習の時間すら確保できないという説明は、到底納得できるものではない。そもそも音楽隊の担当者すべてが救急隊に常時編成されているわけでもない。
要するに、“練習できない”という理由は単なる方便であり、実際には予算の問題、人員のやりくり、モチベーションの低下、組織内での音楽隊に対する軽視といった、運営そのものの破綻が原因なのだ。
だが、その本質には触れずに、「多忙化」「業務負担の増加」という“便利な言葉”で包み込み、市民の同情と理解を引き出そうとするのがいつもの構図である。
「予算では廃止できない」の謎理論
現役時代、何度も音楽隊の廃止を打診したことがある。
その理由は単純明快。コストに対して得られる公益性が低すぎるからだ。
しかし返ってくる答えはいつも同じだった──
「予算を理由には廃止できない」
意味不明である。
人件費、楽器購入、移動経費、練習環境の確保…すべて税金でまかなっているにもかかわらず、なぜ「予算が足りないからやめます」と言えないのか。内部的な“既得権”と“文化”が癒着し、制度上の廃止判断が働かない構造こそが最大の問題だ。
こうした“誰も得していないけど続いている事業”に税金が注がれている現実は、地方行政全体に共通する病理でもある。
終わりに|「解散」はむしろ正常化の一歩
音楽隊の廃止・休止がニュースになると、「寂しい」「残念だ」「伝統が消える」といった感情的な声が上がる。
しかし、それは組織運営や公共サービスの本質とは無関係の議論である。
消防の使命は、人命救助・災害対応・予防啓発といった“本業”である。
音楽演奏はあくまで補助的活動にすぎない。
その“補助”が予算を食い、人員を拘束し、活動意義も曖昧になっているのであれば、潔くやめるのが筋というものだ。
音楽隊の解散は、消防行政が“正常な感覚”を取り戻す一歩である。
その流れがもっと広がることをむしろ期待している。