優秀な人材が離職する背景
消防本部では、能力の高い若手職員や経験を重ねた優秀な中堅職員が離職する傾向が強まっている。早期離職の理由としてよく挙げられるのは、過度な雑務の押し付け、能力に見合わない評価制度、そして努力が報われない閉塞感である。
若手職員の中には、救急現場での迅速な判断力や、災害現場でのリーダーシップを持つ者も多い。しかし彼らは、その能力を正当に評価されることなく、無意味な書類業務や意味不明な「研修」に時間を奪われる。上層部が「若いうちは下積みだ」と言って押し付ける業務の多くは、単なる業務のたらい回しであり、成長の機会を奪うものでしかない。
中堅職員に至っては、さらに悲惨である。現場と管理職の板挟みにされながら、意思決定の責任も負わされ、しかし裁量は持たされない。意思決定はすべて上層部が行うが、その基準は曖昧で、その意向に従わなければ「扱いにくい」と評価され、昇任試験では不利になる。
中堅の離職理由の多くが「もう我慢の限界だった」という言葉で説明されるのも、当然のことなのだ。彼らは、職員の無能さを原因とする組織の柔軟性のなさ、何よりも既得権益を守ることだけを目的とする職員の多さに絶望する。上を見ても下を見ても、前向きに改革に取り組む気概は感じられず、自らが改革の旗手になろうにも、周囲の無理解と妨害により心が折れていく。
組織文化と評価制度の問題点
消防組織には、いまだに根強い年功序列文化が存在する。実績よりも勤続年数が重視され、昇任試験の運用も透明性を欠く。人事評価は形式的なものに過ぎず、実際は総務課や人事課の意向が反映され、波風を立てない無難な人材が選ばれる。
表向きには「筆記試験・論文・面接による総合的な判断」としているが、その中身を覗けば、形式を整えているだけにすぎない。面接の質問が受験者によって異なる、評価基準が開示されていない、採点のプロセスがブラックボックス、受験前に合格者の内定が決まっている──こういった噂は、もはや噂ではなく「常識」として職員の間で語られている。
能力の高い職員ほど業務が集中し、しかも評価や報酬に反映されない。この構造は、優秀な職員が搾取されるシステムを生み出している。使命感に支えられ、搾取に気づくのが遅れる者も多いが、気づいたときにはすでに体力も精神力も尽きてしまっている。
さらに厄介なのは、悪意が顕在的ではなく潜在的であるという点だ。搾取する側は自覚がなく、「自分たちは正しいことをしている」「これが組織のためになる」と信じて疑わない。善意の皮をかぶったシステムは、かえって破壊的である。話し合いでは是正できない。教育では変わらない。改革を志した者は、やがて疲弊し、そして去る。
結果として残るのは、波風を立てないことを美徳とし、変化を恐れ、現状維持を最大の成果とみなす人材だけになる。そしてその人々が、次世代を育てる立場に回る。悪循環は加速するばかりである。
ハラスメントと職場環境の課題
消防におけるパワーハラスメントやいじめの常態化は、今や構造的問題と化している。特定の本部に限らず、全国各地で「閉鎖的な体育会系の文化」「上下関係の絶対性」によって、不合理な言動がまかり通っている。
とりわけ若手職員がターゲットにされやすく、指導という名の怒鳴り声、精神的プレッシャーをかけ続ける「指導係」の存在など、もはや犯罪に近い行為も珍しくない。だが、こうした行為が処分されることは極めてまれである。なぜなら、処分を下す上司自身が、かつて同様のやり方で育てられた「加害の再生産者」だからだ。
この構図の中で、本来改革を進めるべき優秀な職員たちも次第に沈黙していく。「問題提起をすれば自分がやられる」と理解してしまうからだ。やがて、そうした職員は精神を病むか、退職を選ぶかの二択に追い込まれる。
しかも、こうした組織風土を外部が知る機会は極めて限られている。報道されるのは氷山の一角であり、大半は内部で握り潰される。内部告発は「組織の恥」とされ、加害者よりも告発者が悪者扱いされるのが常だ。
さらに、意思決定のプロセスが非常に稚拙であるにもかかわらず、その様子を外部に見られることを極端に嫌う体質も問題だ。まるで、無能が露見するのを恐れて情報を遮断するような体制である。
以前にも書いたとおり、百人の幼稚園児が集まっても微分積分は解けないが、たった一人の優秀な高校生がいれば解けてしまう。つまり、数では質を超えることができない。だが消防組織はその逆を行き、「とにかく数を揃えろ」とばかりに、能力とは無関係に昇進と配属を繰り返す。
そして、その優秀な高校生=有能な職員こそが真っ先に辞めていくのである。残されたのは、責任を回避する術だけに長けた“職員の皮を被った組織員”であり、彼らが管理職として新たな悪循環を生む。
無能な100人より有能な1人の価値
現代の組織運営において、意思決定や課題解決の場面で「無能な100人よりも有能な1人が優れている」というのは常識である。とくに現場の判断が人命に直結する消防という特殊な組織においては、まさに命題とも言える概念だ。
しかし実際の消防組織はどうだろうか。いまだに「全員一致」「根回し」「空気を読む」が意思決定の前提であり、単独で異議を唱える者は煙たがられる。
組織を維持しようとする意志が、もはや人命救助の使命よりも上位に位置づけられてしまっている。これは重大な倫理の逸脱であり、存在意義の崩壊である。現場での判断力・行動力を評価するどころか、波風を立てない職員だけが出世するという歪んだ評価構造がある限り、有能な人材が活躍する道は閉ざされている。
有能な職員はこうした構造に気づく。そして考える。「この組織で自分は誰を救えるのか」と。答えが見つからなければ、彼らは静かに退職離職という道を選択する。それは敗北ではなく、むしろ倫理的な正しさゆえの離脱である。
逆に、組織に残るのは、考えることを放棄した者たちである。疑問を持たず、指示を待ち、前例に従って行動するだけの“装置”。そのような人材が組織の骨格を担っていく。
この現象は、もはや組織崩壊の前兆である。
なぜ変わらないのか
「なぜ消防組織はここまで腐敗したのか」「なぜ優秀な人間がいなくなってしまったのか」――この問いに対する答えは、あまりにも単純である。
それは、腐敗を自覚している人間がすでに辞めてしまったから。そして、残された人々の多くが、自らの属する組織の異常性に気づけないほど“麻痺”してしまっているからである。
消防は本来、危機に対峙する仕事である。変化を恐れてはならない立場にある。だが、現実の消防組織は、「前例主義」「保守性」「自己保身」が支配しており、変革の芽を自ら摘み取っている。
「うちの本部は問題ない」「それは他所の話」と自分たちを例外視する思考もまた、深刻な病理の一つだ。問題が表面化するのは、氷山の一角。大多数の“水面下”にある歪みは、今も放置されている。目に見える形で露呈するのは、ごく一部に過ぎない。
さらに問題なのは、自治体や総務省消防庁が、こうした内実を把握しているにもかかわらず、具体的な是正策を講じないことだ。「現場に任せている」「地方自治の尊重」といった言葉で逃げながら、実態には目をつむっている。見て見ぬふりをしているという意味では、彼らもまた共犯者なのである。
そして、もっとも根深い問題は「変えよう」とする意志を持った職員が、組織内で孤立することだ。
例えば、新しい研修制度を提案すれば「面倒なことをするな」と言われる。 例えば、業務フローを効率化しようとすれば「昔からこうだ」と一蹴される。なぜなら、既存の制度を作った人が評価されている現状を否定することになるからだ。
こうして、改革者は次第に声を失っていく。最終的には、その声すら発することをあきらめ、静かに職場を去る。
問題があるから辞める。 変わらないから辞める。 未来が見えないから辞める。
これらの離職者たちは、決して“逃げた”わけではない。むしろ、自分の良心を裏切らないために、自らの信念を守るために、辞めるという選択をしたのだ。彼らの中には、消防という仕事を心から愛していた者も多かった。しかし、その愛すらも踏みにじる組織の現実に、耐えることができなかった。
消防組織の腐敗は、もはや一部の失策ではない。構造的な問題であり、制度的な欠陥であり、そして文化的な病である。
今、我々が問うべきは「なぜ変わらないのか」ではない。
「変わらないようにしているのは誰か」
この問いを避けていては、未来はない。
優秀な人材が安心して働ける組織をつくるために、もう“良識ある無関心”では済まされない時代が来ている。
「消防に殺される」という比喩表現が現実にならないことを願うしかないのか。