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第三者という名の傀儡たち──八代広域消防のパワハラと調査拒否

八代郡 熊本県

八代郡 熊本県

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1. 「パワハラ疑惑」と「調査に消極的」な上層部──ニュース概要

 2025年6月、熊本県の八代広域消防本部において、消防司令補による部下への暴言・暴力が日常的に行われていた疑いが報道された。
 ニュースによれば、複数の関係者がその実態を認識しており、内部告発も上がっていたものの、上層部は事案を把握しながら「調査には消極的」という姿勢を貫いている。

また、被害を受けた職員が心身の不調を訴えているにもかかわらず、組織としての真摯な対応は見られず、代わりに発せられたのは「第三者を交えた委員会での検討を行う予定」という常套句に過ぎなかった。

 ここで問題となるのは、「第三者」という言葉の扱われ方と、それに象徴される表向きだけの対応である。


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2. 「第三者委員会」という方便──公平を装った隠蔽システム

 近年、消防をはじめとする行政機関が不祥事対応の際に好んで使う言葉がある。

「第三者委員会を設置し、調査・検討を行います」

 この言葉には、不正に対して透明性と中立性を担保するかのような響きがある。しかし、これは現場の人間からすれば茶番に過ぎないと断言できる。

 そもそも、こうした委員会が本当に「第三者」などと呼べる存在なのだろうか?

 筆者自身、これまで複数の委員会設置の実態に関与してきた。そこで見たのは、「公平性」などとは程遠い、組織の都合によって構成された“傀儡的な会議体”の姿だった。



 つまり、「第三者委員会」とは、都合の良い結論を出させるために組織が用意した体裁を整えるための装置に他ならない。これほどまでに“誠実さ”のかけらもない制度が、いまだに通用していること自体が驚きである。もちろん、逆に消防本部を否定する内容の結論を誘導する場合もある。前言撤回では体裁を保てないため、第三者委員会の提言を真摯に受け止めるとうアピールに使われる場合もある。

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3. 第三者など存在しない:報酬と人選が証明する“内輪”構造

 消防組織が不祥事対応の手段として「第三者委員会」を設ける際、形式的なプロセスだけが整っていれば、実質的な中身は問われない。
 重要なのは、「公正に見えること」であり、「公正であること」ではないのだ。

 委員に支払われる報酬は、基本的に消防本部の予算から出る。つまり、委員の“雇い主”は消防本部である。報酬額は数万円から十数万円に及ぶこともあり、実質的には「委員でいてくれてありがとう」「うまく話をまとめてくれて助かる」といった“感謝料”の性格が色濃くにじむ。

 さらに問題なのは、人選の不透明さだ。表向きには「第三者」とされていても、実態は以下のような流れで決まる。

つまり、想定外の人物が選ばれることは100%ない
筆者も過去に複数の第三者委員会の設置に関わった経験があるが、「えっ、この人が来たの?困るな…」というような“予想外”の事態は一度たりとも起きなかった。


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「公平な審査」を演出するだけの茶番劇

このような形で設けられた第三者委員会が、果たしてどんな議論を行うのか。

答えは簡単だ。「すでに消防本部から方向性が提示されている」。
あるケースでは、委員長と副委員長のみに「今回は〇〇という結論にしたい」という希望が事前に伝えられ、それをもとに議論が進められていた。その他の委員も、その方向性を黙認する。そもそも「真相を究明する気など端からない」からだ。

さらに悪質なのは、こうした会議が**“市民に対して説明責任を果たしている”というアリバイ工作**として使われる点にある。

 消防本部が「第三者委員会の判断を尊重します」と述べるとき、それは一見、謙虚な姿勢を装っているように見える。だが、実態は自分たちで仕立てた人形劇を自分で拍手しているだけにすぎない。


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なぜ“第三者”にここまで幻想を託すのか

 この茶番劇が繰り返される根本には、組織の中も外も「第三者=絶対的に中立で、公平に判断してくれる存在」というナイーブな信仰を持ってしまっている点がある。

 しかし現実には、報酬と人選を握っているのが当の消防本部である以上、真の第三者など存在し得ない。論理的に思考する人間であれば、そこに重大な矛盾があることに気づくはずだ。

 にもかかわらず、「第三者委員会を設置します」と言えば、市民やマスコミの批判はやわらぎ、責任の所在もあいまいになる。これほど便利な装置はないだろう。

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4. 機能不全の組織に自己統制は期待できない

ここまで見てきた通り、第三者委員会とは、組織にとって都合のいい結論を導くための形式的装置に過ぎず、本質的な調査や是正機能を担っているとは言えない。
そして、それを堂々と「公正な対応」として掲げてしまうところに、現代の消防行政の深刻な問題がある。

本来、組織に不祥事が発生した場合、その組織自らが痛みを伴う自己統制を発揮しなければならない。だが、消防組織はその「痛み」をことごとく避けてきた。

これらは単なる対応の誤りではない。制度として腐敗が固定化された結果だ。つまり、自己修復能力を完全に失った組織構造である。

そして、その“制度疲労”の最たる象徴が「第三者委員会」だ。


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“責任を取らない仕組み”が生み出した免疫不全

消防本部は、不祥事が発生した際、責任を負わずに“やり過ごす”ための手段を熟知している。

こうした“操作マニュアル”が、実務の中で半ば常識として共有されている組織に、はたして自浄作用を期待できるだろうか。

答えは明白である。

その結果が、今回のような「暴力・暴言が日常的に行われても、上層部は放置し、外向けには“第三者を入れた検討”を語る」組織対応に繋がっている。


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「何もしないこと」こそが最大の戦略

この問題の恐ろしさは、“なにもしないこと”が最も合理的な戦略として選ばれている点にある。
真相を追及すれば、上層部の責任が問われる。組織の評判が落ちる。市民からの信頼が揺らぐ。そうなれば、トップが処分を受け、部長や課長が更迭される可能性すら出てくる。

であれば、何もしない。調査しない。動かない。黙って時間を稼ぐ。

──この戦略が最も“成功する”ということを、消防職員たちは肌で理解してしまっているのだ。

そして、その“時間稼ぎ”の道具として、第三者委員会は実に都合が良い。発足から報告まで数ヶ月〜1年単位。調査中であることを理由に情報は出さず、終わった頃には世間の関心は別のニュースへ移っている。処分も形式的、再発防止も抽象的──誰も責任を取らずに、次の不祥事へと移行する。


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市民の目線が最後の砦

筆者が知る限り、八代広域消防本部の事案は、氷山の一角である。問題は、八代に限った話ではなく、全国の消防組織で同じ構造が繰り返されているという点だ。

第三者委員会という言葉にごまかされず、調査の透明性、人選の根拠、報酬の構造、結論の方向性を疑って見なければならない。そして、調査の「体裁」ではなく、「結果」や「処分」「改善の具体性」こそが問われるべきである。

なにより重要なのは、私たち市民が“本当の意味での第三者”として、こうした組織の動きを監視し続けることだ。
傀儡が裁く組織に、真の正義は生まれない。

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