「11分の遅れが命を奪った日」 ― 熊本市消防局誤指令と組織的無責任の構造

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通報から始まった“ズレ”と、その代償

 熊本市で発生した悲劇――119番通報を受けた消防指令センターが、誤った住所を救急隊に伝達したことにより、救急車の到着が11分遅れた。結果、90代の女性が死亡。熊本市消防局は「事実関係を調査中」としているが、当該の通報は短時間で終了しており、会話の継続も困難だったことが報告されている。

 このような事故を受け、「人為的ミスか」「構造的な問題か」という焦点ばかりが報じられているが、私たちはもっと本質的な問いを投げかける必要がある。それは、「このような局面で、本当に“間違い”と断じるべきだったのか?」ということである。

 消防現場において、最善策を時間をかけて選択する余裕はほとんどない。特に、通報者の状態が急速に悪化し、会話が継続できないようなケースでは、指令員は「最も確からしい」情報に基づいて即座に判断を下さなければならない。今回の誤指令が「意図的な手抜かり」や「過失」と断じられるのであれば、当然厳正な処分が求められる。だが仮に、「そう判断するほかなかった」状況下での即決だったのであれば、それを“間違い”と定義づけ、組織が「悪しきミス」として自己処理してしまうことには、むしろ強い不信感が残る。

 消防局が今回の事案を「単なる誤伝達」として処理しようとする姿勢は、現場で命を預かる指令員たちの判断を過小評価し、責任を個人に転嫁する典型的な“官僚的処理”に見える。それは、一人の命を失った痛みを組織全体で背負おうとする真摯な姿勢とは言いがたい。

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現場の1分は、指令室の1秒に勝る

 消防という仕事の本質は、限られた情報の中で「及第点の判断」を下すことにある。100点の判断が可能であればそれに越したことはないが、現実には「短時間で」「曖昧な情報をもとに」「重大な判断を」下さねばならないことが常だ。今回の熊本市消防局の指令員も、おそらくは混乱した状況下で、可能な限りの判断を試みたのだろう。

 にもかかわらず、消防局側は早々に「誤指令が原因」と断定し、因果関係の有無に関する調査に入ると発表した。もちろん、市民の命を預かる以上、検証作業そのものは必要不可欠だ。しかしそれ以上に重要なのは、「この判断がなぜそうなったのか」「それは仕方がなかったのか」――つまり“背景”と“構造”に目を向ける姿勢ではないか。

 今や多くの消防組織では、通報内容の録音やGPS連携、地図データベースとの照合などが活用されている。しかしそれでも、最終的な判断は人間の耳と目、そして直感に委ねられる。システムの整備だけでは、すべての事態に対応することは不可能なのである。

 しかも今回、通報者との会話がわずか数十秒で途絶えたことも報じられている。ならば、誤認を避けようがない状況だった可能性も否定できない。その状況で「誤指令=過失」とするのは、現場を無視した“机上の評価”に過ぎないだろう。


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“反省の型”に逃げる組織文化の限界

 日本の消防組織に限ったことではないが、重大な事案が発生したとき、まず「反省の姿勢を示す」ことが求められる。この“型”を踏むことで、組織は社会的な非難をかわし、内部の責任追及も最小限に抑える。

 だが、それは本当の意味での改善ではない。今回の熊本市消防局も、「誤指令があった。だから原因を調べる」という極めて形式的な対応に終始している印象が強い。実際に救急隊が現場に到着したときの状況、通報内容の音声、そして指令員がどのような意図でその住所を伝達したのか――これらを総合的に評価せねば、再発防止にはつながらない。

 それにもかかわらず、組織は「ミスの特定」と「関係者の処分」だけで幕引きを図ろうとする。こうした傾向が強まれば強まるほど、現場の隊員たちは“余計な責任”を恐れ、萎縮した判断を下すようになっていく。そして最終的には、「最善ではないが最速」だったはずの判断すら、下されなくなるだろう。

 救急隊員や指令員が本来持っている「現場勘」や「判断力」を削ぎ落とす組織体制は、むしろ市民の命を危険に晒すことになる。その意味でも、熊本市消防局の対応は非常に危うい。今回の事故を単なる「ミスの処理」で終わらせるのではなく、「この判断のどこまでが正しかったのか」を冷静に分析すべきである。

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時代遅れの安全機器と、見過ごされた高齢者の声

 消防と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、赤色灯を回して走る救急車や消防車、あるいはAEDや住宅用火災警報器などの“装備品”かもしれない。確かにこれらは重要である。だが、今の時代に本当に必要なのは、こうした目に見える安全機器ではなく、“声なき弱者のための仕組み”ではないか。

 特に高齢者の一人暮らしが急増している現代において、彼らの「もしも」に備えるシステムは極めて重要だ。にもかかわらず、現行の通報体制はあくまで電話ありきであり、今回のように通報の途中で会話ができなくなれば、情報の正確性は一気に失われてしまう。

 実際、家庭用の非常通報装置はすでに市販されているし、自治体によっては高齢者に配布している例もある。しかし、こうした取り組みは全国的に見ればごく一部に留まり、消防本部として積極的に推進しているところは少ない。なぜか――それは「目立たないから」だ。

 AEDや火災警報器であれば、設置件数を数値としてアピールしやすく、実績として公表しやすい。一方で、非常通報装置のような“未然の備え”は、数字としてのインパクトに乏しい。だからこそ、組織はそれを後回しにしてきた。だが、その結果が今回のような悲劇を招いたのだとすれば、問題はあまりにも根深い。


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見えない構造的問題が、次の命を奪う前に

 熊本市で起きたこの事故は、単なる「住所の誤伝達」ではない。そこには、判断の正当性を否定する組織文化と、目立つ政策にばかり注力する行政の姿勢、そして高齢者への備えの不十分さといった、数多くの構造的な問題が横たわっている。

 そして、こうした問題は熊本市消防局だけの話ではない。全国の消防本部に共通する体質であり、少子高齢化社会における“最前線の崩壊”を示す一端でもある。

 「誤指令だったかどうか」ではなく、「なぜ誤指令が起きる構造だったのか」。この視点を持たない限り、今回の悲劇はまた繰り返されるだろう。そしてそのときもまた、消防組織は責任者の処分と形式的な再発防止策で“幕引き”を図るのかもしれない。

 市民が求めているのは、反省の姿勢でも謝罪の言葉でもない。ただ、命が失われる現場において、本当に必要な備えと判断がなされているかどうか――その一点に尽きるのである。