救急搬送中にガソリンが切れそうになり、別の救急車へ乗せ換え
2025年5月、愛媛県新居浜市消防本部南消防署の救急車が、患者を搬送中にガソリン残量が少ないことに気付き、別の救急車に患者と隊員を乗せ換えて病院へ搬送するという異例の事態が発生した。
事案が公表されたのは7月23日。公式発表によれば、患者の容体に影響はなく、搬送にも大きな遅れはなかったとしている。しかし、この異例の事態は、表向きの説明ほど軽微な問題ではない。むしろ、消防の根本的な業務運用と装備管理意識の低さを露呈した重大なミスである。
現場到着時点では異常に気付かず、搬送途中で初めて燃料が危険水域にあることを知ったという。つまり、救急現場への出動前に燃料確認すら行われていなかったということであり、これは重大な管理不備である。
AEDや酸素ボンベが空でも出動するのか?という本質的問い
本件を「たまたま燃料が足りなかった」として片づける声もあるが、それは本質から目を逸らしている。今回の「ガソリン不足での車両交換」は、次のような状況と何ら変わらない。
- 除細動器(AED)の電源が入らず使えなかった
- アドレナリンが入っていない状態で出動した
- 酸素ボンベが空だった
- ガーゼや止血用資材を積み忘れていた
- 点滴の液剤が在庫切れだった
つまり、現場で必要な命を守る装備の確認を怠ったまま出動していたこととまったく同じ構造なのである。
ガソリン・救急車もまた、その命を運ぶ「搬送装置の心臓部」であり、器材の中でも最上位に位置する重要項目であることに変わりはない。
それが未確認で出動されたという事実は、人命を預かる救急業務においてあってはならない初歩的過失である。
もしこれが「前照灯の球切れ」だったら?「パンク」だったら?
燃料不足というケースがたまたま目立った形で露呈したにすぎず、他の「装備不良」だったらどうだったのかを想像すれば、事の重大性が明確になる。
- 救急車の前照灯が球切れだったら?
- タイヤがパンクしていたら?
- サイレンが鳴らなかったら?
- 車両のブレーキに不具合が出ていたら?
答えは明確だ。そのような車両では絶対に出動しない。整備場に戻し、代替車両を手配してから現場に向かうのが当然の運用である。
ではなぜ「燃料が足りない」という、もっともシンプルな整備不備についてはスルーされたのか?
これは、チェックが形骸化していた証拠であり、現場の感覚が「慣れ」や「油断」に支配されていたことを示している。
患者の容体に影響がなかった=緊急性がなかった、という言い訳
消防本部側は、「患者の容体には影響がなかった」と繰り返し強調している。
しかし、これは裏を返せば、そもそも病院への緊急搬送の必要がなかったということを意味している。
であれば、なぜ現場では緊急を要するとの判断で救急車を出動させたのか?
この一件は、119番の通報を受けた際の出動判断そのものが機能していない可能性を示している。
救急隊は一日に何件も要請を受ける中で、感覚がマヒしていた可能性がある。患者の本当の緊急度や搬送の必要性を的確に判断せず、形式的に救急車を出すだけの惰性運用になっていたとすれば、それもまた大きな問題である。
「遅れはあったが影響なし」のごまかしと責任転嫁
今回の発表で消防本部が繰り返した説明は、「搬送に遅れはあったが、患者の容体に影響はなかった」というものである。
しかし、この文言はまさに【責任の分散・矮小化】の典型であり、問題の本質から目を逸らすための言い回しに過ぎない。
そもそも、患者搬送中に救急車を途中で止め、別車両に乗せ換えるという行為自体が、明確な搬送中断であり、命を扱う現場では致命的な瑕疵である。
それを「結果として大丈夫だったからセーフ」という感覚で語ること自体が異常なのだ。
そしてこの言い回しの裏には、次のようなメッセージが隠れている。
【患者に影響がなかったのだから、たいした問題ではない】
【救急隊に悪意はなかった】
【出動判断は正しかった】
これではまるで、責任が市民の側にあるかのような印象操作である。実際、ニュースのコメント欄でも「そんな通報しなくてもいいのに」「救急車のムダ遣い」など、安易に市民を責める声が目立った。
だがそれは本末転倒である。
市民は不安に駆られ、必死の思いで119番通報をした。
それに対して出動の可否や搬送の緊急性を判断するのは、あくまでプロである消防の責任なのだ。
擁護コメントの危険性 簡単に誘導される大衆の構図
このニュースに寄せられたコメントの中には、以下のような声が目立っていた。
・【燃料不足は誰にでもあること。責めるのは可哀想】
・【人間なんだからミスもある】
・【結果的に患者に影響がなかったのなら問題ない】
・【少しでも責めるのはモンスター市民】
これらの投稿は一見、寛容で冷静な態度に見えるが、実は非常に危うい論理構造を持っている。
【消防=正しい】【市民=クレーマー】【問題を指摘する者=悪】という三項構造で、問題提起そのものを封じ込めようとしているのだ。
実際には、燃料不足というミスは許される範囲を超えているし、命を扱う業務において「たまたま大事に至らなかったからOK」という考え方は未必の故意に近い無責任である。
しかし多くの市民は、そうした背景を知らない。消防が日々頑張っているという印象に引きずられ、問題点を見ようとしないまま、「批判=攻撃」と誤認してしまう。
そのようにして、構造の欠陥が温存されていく土壌が作られている。
装備チェックが命を守る現場で、それができない人間の末路
救急車の燃料は、心肺蘇生のAEDと同じくらい重要な装備である。
それを出動前に確認していなかった。これだけでも重大なミスであるが、さらに問題なのは、このレベルの管理を軽視している職員が市民の命を預かっているという現実だ。
酸素ボンベが空でも出動するのか?
点滴バッグが無くても構わないのか?
ストレッチャーが壊れていても気にしないのか?
答えはすべて「NO」であるべきだ。
であればなぜ、燃料だけが例外なのか。なぜその例外が容認されるのか。
この現場には、そうした基本的な整合性すら存在していなかったということだ。
そのような職員は、人を殺しかねない状態にある。
したがって、本件は口頭注意や始末書で済むようなレベルの話ではない。
最低でも減給処分は不可避であり、場合によっては免職も選択肢に入れるべき問題である。
「現場は大変なんだ」と免罪される構図を許してはならない
現場の大変さを盾に、どんな問題も擁護される傾向がある。
「人手不足だから」
「忙しすぎて確認できなかった」
「ミスは誰にでもある」
こうした言葉が、全国の消防職員の不祥事や職務放棄を覆い隠す常套句として使われている。
だが、その結果として起きた失敗のツケを払うのは、市民である。
命を落とすのも、重篤化するのも、個人情報を盗まれるのも、全て市民なのだ。
それでもなお、職員側が「現場の過酷さ」を盾に言い訳をし、それを聞いた市民が「大変なんだね」と理解を示す――
この構図こそが、失敗を許容し続け、組織の堕落を生む温床である。
まとめ
今回の新居浜市消防本部による「ガソリン切れによる搬送中断」は、単なる凡ミスではない。
燃料という生命線の未確認は、AEDや薬剤の未整備と何ら変わらない、命に直結する不作為である。
それを「結果的に問題なかったからOK」として終わらせようとする消防組織の姿勢、
それを安易に擁護してしまうコメント欄の空気、
そして、それによって温存され続ける「緩い装備管理」と「責任の所在不明」の構図――
これらすべてが、市民の安全を脅かす根源である。
我々がすべきことは、こうした“日常的な構造のゆがみ”に目を向けることであって、決して「現場は大変だから仕方ない」で済ませることではない。
そして、言葉を理解できない彼らは今日も意味のない訓練(救助技術指導会)を続けるのであった。