はじめに|「公務中にコンビニ」から見える“すり替え”
「消防職員、公務中にコンビニ利用解禁」──この報道を耳にした市民の多くは、おそらく「ああ、たいへんな仕事だし、これくらい許してあげても」と感じただろう。メディアも、「健康管理の一環」「業務の合間に必要な水分補給」などと、いかにももっともらしい説明を添えて報じていた。
しかし、そこに“違和感”を持った人はどれだけいただろうか?
報道の中で繰り返されたのは、「過酷な勤務」「体調維持の必要性」「山口県内で初めての取り組み」というキーワードである。
だが、本当に“過酷”なのか?
そして、果たしてその“過酷さ”は他の公務員や民間職に比して、例外的に特別なものなのか?
今回は山口市消防本部が打ち出したこの「コンビニ解禁」に象徴される、「俺たちは忙しいから」というアピールの構造と、そこにある“事実とのズレ”を冷静に検証していく。
第1章:「1日3件の出動」で“忙しい”は成立するのか?
まず、データをもとに冷静に見てみよう。
山口市消防年報によると、同消防本部には常時稼働していると考えられる救急車が約10台、少なく見積もっても8台は稼働している。
そして、年間の救急出動件数はおよそ10,500件。これを単純に365日で割ってみると──
- 救急車が8台体制なら、1台あたり1日3.6件
- 10台体制であれば、1日2.9件
さらに、実際に搬送を行った件数は約9000件なので、
- 搬送ありのケースだけに限定すると、1台あたり1日2.5〜3.1件
……これのどこが「過酷」なのだろうか?
もちろん1件あたりの業務時間を平均1.5時間と見積もったとしても、最大で1日約4.5時間程度の業務時間である。
拘束時間は24時間。実に20時間近くが待機時間という計算になる。
にもかかわらず、「私たちは忙しい」「水分補給すらできない」といったアピールが展開され、それが“公務中のコンビニ立ち寄り”を正当化する理由として挙げられている。
これは明らかに、“多忙を演出している”と見るべきだ。
本当に市民のために働いているなら、救急出動データを開示して、どれだけの負担があるのか具体的に示すべきである。
曖昧な「体感」や「現場の声」に乗じて制度変更が行われ、それを批判する者には「現場を知らない」「冷たい市民」とレッテルを貼る──
そうした“感情と演出”による世論操作こそが、消防組織の危うさの本質である。
第2章:「あいつらよりはマシ」という錯覚がつくる被害者意識
もうひとつ、今回の問題において質が悪いのは、「自分たちは他の部署より忙しい」という前提が、組織内部ですら無自覚に共有されている点だ。
確かに、消防の中では救急隊が比較的忙しいポジションだろう。
しかし、それはあくまで「消防内部の相対評価」にすぎない。
救助隊、指令係、予防課、安全指導員など、業務量に偏りがあるのは事実だ。
しかし、だからといって「自分たちだけは特別に忙しい」「特別に配慮されるべきだ」と考えるのは、極めて傲慢な思考である。
一般の職場では、繁忙部署に属する職員が「水分補給したい」と言って、勝手に外出すればそれは問題になる。
体制を補うために臨時要員を雇ったり、他部署から応援を回したりするのが、通常の対応だ。
消防ではそれがない。
たった数件の出動件数で「今日は疲れた」と言いながら、その認識を疑う文化すら存在しない。
そして、もっと暇な部署と比較して「俺たちは忙しい」と叫ぶ。
だがそれは、市民や他の公務員、ましてや民間職と比較してどうなのかという“絶対評価”ではない。
この“相対的な多忙アピール”は、自己評価の歪みを生み、被害者意識を肥大化させる。
第3章:“繁忙期”の錯覚──消防が持たない季節労働の構造
消防組織──とりわけ救急隊──がしばしば訴えるのが、「1日中走りっぱなしで休む暇もない」という声だ。
だがここで確認しておきたいのは、「それは毎日なのか?」「本当に休めないのか?」という視点である。
地方消防であれば、先述の通り1日3件前後の出動が平均値だ。そのなかで「今日は多かった」と感じる日がたまにあるだけであり、それは「日常的に多忙である」こととは意味が異なる。
一般の地方公務員を見てみよう。
たとえば、
- 税務課では課税通知発行前の2週間
- 財政課では予算案提出直前の1ヶ月
- 総務課では議会会期中の資料作成や調整業務
- 保育課では新年度保育園決定前の3週間
……こうした部署は、日をまたぐ残業が常態化する。数時間の仮眠のためだけに帰宅し、翌朝また出勤する日が続く。それでも人員は補充されず、対応力のなさを咎められながら必死に持ち場を守る。
農業においても、収穫期には一斉に人員を募り、非正規雇用を前提とした“繁忙期構造”が形成されている。
つまり、多くの職種は「忙しい時期」と「そうでない時期」のメリハリを前提に組織が成り立っているのだ。
それに対して消防はどうか。
1年を通じて安定して暇で、たまに「事故が重なって今日は5件行った」日があれば「過酷な勤務」としてニュースになる。
そのくせ「人が足りないから」「これ以上は危険だから」と言って臨時人員を補充する発想すらない。
「俺たちは毎日繁忙期」だと主張することで、“構造的改善を免れている”のが消防組織である。
多くの職場が“忙しい時期を耐えて工夫する”のに対し、
消防は“少しでも忙しければ制度の見直しを求める”。
しかもそれが、同情を伴って報道されるという特権的な扱いを受けている。
第4章:総括|“同情”と“誤認”がつくる免責構造
今回の山口市消防本部の「公務中コンビニ利用解禁」には、直接的な問題はない。
それ自体は“制度の見直し”にすぎず、本来ならさほど議論にならないはずだ。
だが、問題はその背景にある「多忙アピールと免責構造」にある。
市民は「それぐらいいいじゃないか」と感じる。
だが、そこにある「本当に忙しいのか?」という視点を抜かしてはいけない。
消防は、ある種の“聖域”として扱われてきた。
それは命を預かる仕事であり、感情を揺さぶる現場があり、劇的な映像があるからだ。
だが、その“イメージの特権”に胡座をかき、
実際には軽度の繁忙を“特別な苦労”として訴え、制度上の優遇を勝ち取っていく姿勢には、やはり冷静な批判が必要だ。
- 出動件数は公表されている。客観的に検証できる。
- それをもって本当に「常に忙しい」かは誰にでも判断可能だ。
- にもかかわらず「現場を知らない者にはわからない」という論理で押し切る。
これは、自己免責のための構造的言語操作に他ならない。
まともな市民であれば、「事実に対する感情の上塗り」を、消防が無自覚に繰り返していることに警鐘を鳴らすものでるべきだ。
消防という仕事の価値は否定しない。
だが、その正当性を主張するために、他の職業や職場と比較せずに“苦労”だけを強調する姿勢が続くなら、その組織はやがて社会から信頼を失う。
市民が問うべきは、「消防職員がコンビニに行くことの是非」ではなく、
「それを“当然の権利”として正当化しようとする“物語の使い方”」である。