軽処分なのに管理職が横並びで頭を下げるという演出と、出世インセンティブのゆがみ

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ニュースの概要

 松阪地区広域消防組合は、松阪市内の河川で行われた水難救助訓練の最中に同僚の腕時計が紛失し、拾得した主任級の男性消防士(38)が現場申告を行わず、その後の捜索にも加わった事案について、法令違反・服務義務違反で戒告処分とした。

 処分は2025年8月21日付。
 発表時には、管理職とみられる複数名が横並びで謝罪する写真が添えられて報道された。消防長は、コンプライアンス意識と服務規律の徹底を改めて表明した。

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演出としての謝罪列 人数と事案の重さが釣り合わない

 今回の処分は戒告であり、懲戒の中でも比較的軽い。
 にもかかわらず、横並びの深い礼という視覚的に強い演出が前面に出た。

 ここに見えるのは、公のための説明よりも内向きの実績づくりが優先される組織のシグナルである。

 写真に「何人が並んで、どれほど深く頭を下げたか」は強く記憶に残るが、住民にとって意味があるのは、いつ・どこで・何が起き、なぜ起き、どの規律が破られ、どのレベルの処分が妥当と判断されたかという中身である。まぁ、今回の件で言えば、勝手に内部でやってくれという話ではある。内容に興味はない。

 演出の濃度が増すほど、説明の密度は薄まりがちだ。謝罪の列は、反省の深さの証拠ではない。むしろ、人数の多さで中身の薄さを覆う便利な幕として機能してしまう。

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内向きの実績づくりとしての謝罪ポーズ

 懲戒事案が発生すると、
 内部調査、文書整理、対外説明、記者応対
といった工程が走る。

 ここでしばしば起きるのが、謝罪対応を主導したという役割の可視化であり、写真に「並ぶ」こと自体が業績ポイントへ変換される現象だ。

 会見で前面に立った痕跡は、のちの評価や人事の場で語りやすく、資料化しやすい。

 そうなると、謝罪対応は写真映えの業務へと変質する。

 軽処分の案件であっても、複数の管理職がわざわざ前に出る構図が常態化し、結果として見せ場の確保が説明の明瞭さを押しのける。演出が整うほど、現場で必要な検証や反省の語彙は紙面の外へ追いやられる。

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謝罪の前面に立つことが評価や出世に繋がるという歪み

 この演出過多を駆動しているのは、謝罪の前面に立つほど評価されるというインセンティブの歪みである。

 危機対応を率いたという肩書や露出は、短期間で可視化され、実績として切り出しやすい。

 対照的に、日々の訓練設計や備品管理、規律の浸透といった地味な改善は、可視化が難しく、加点もされにくい。

 こうして評価の回路は、舞台装置の運用に長けた人を上層へ押し上げ、現場運用と規律の運用に長けた人を埋没させる。実際には長けていなくとも、ただただその謝罪の場に立ちたいという場合が多いです。

 やがて、謝罪の場を設計することそのものが技能と見なされ、組織は写真に残すより、仕組みを残せという当たり前の順序を取り違える

 結果、軽処分の案件でも複数名が列をなす。

 これは住民向けの説明ではなく、将来の自己評価に向けた証跡づくりであり、謝罪は舞台ではないという原則の反転である。

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大量処分を経ても学びが定着しない 儀式化と学習不全

 松阪の消防は2024年、全職員の一割を超える33人に及ぶ懲戒処分を公表した。

 異例の規模の不祥事を経た直後であっても、翌年に軽侮な規律逸脱が顔を出すという現実は、謝罪の定型化に対して行動の変化が伴っていないことの証左である。

 儀式は繰り返すほど洗練され、写真は美しくなる。

 他方で、現場で必要な共通理解や初歩的規律(拾得物の取り扱いなど)が浸透しないなら、それは学習の不全だ。

 組織が本当に変わったことを示す唯一の方法は、同種の事案が起きないという沈黙の実績だけである。沈黙が積み上がらない限り、謝罪はいつまでも演出の域を出ない。

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個人攻撃を避け、装置としての組織を直視する

 今回の拾得未申告の行為を、特定個人の資質だけに還元して断罪するのは簡単だ。

 しかし、同種の振る舞いが消防組織で反復的に現れるという前提を置くなら、矢印を個人だけに固定しても意味はない。

 問題は、軽処分の案件にまで管理職が列をなし、前面に立つ経験が評価・出世の通貨として機能してしまう装置そのものにある。

 外形的には反省の姿勢を取りながら、実際には謝罪の舞台化を強化するだけの自己物語が回り続ける。

 ここで強調すべきは、写真の画角ではなく、測れる変化である。

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結びに

 頭を下げる人数は、反省の深さの指標ではない。

 むしろ、説明の薄さと評価の歪みを覆う幕になり得る。

 軽処分の案件で横並びの深い礼が繰り返されるほど、伝わるメッセージは単純になる。

 すなわち、写真に残したいのは反省ではなく実績だ、ということだ。

 必要なのは、舞台装置の洗練ではない。沈黙を増やすこと、すなわち同種事案が起きないという時間の堆積である。写真に残すより、仕組みを残してほしい。