救急有料化論争の表と裏:松阪市の「選定療養費導入」が突きつけた消防行政の敗北と現場の限界

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はじめに:過去最多を更新し続ける救急出動件数と「崩壊」の足音

総務省消防庁が毎年発表する救急出動件数は、いまや「過去最多」という言葉が定位置となった感がある。2023年(令和5年)の全国の救急出動件数は727万5,256件に達し、集計開始以来の最高記録を大幅に更新した。これは全国で「約4.3秒に1回」の割合で救急車が出動している計算となり、現場の消防職員・救急隊員にかかる負荷はすでに個人の精神論や使命感でカバーできる領域を完全に超えている。

こうした状況下、2024年6月に三重県松阪市をはじめとする地域で実施された「入院に至らない軽症患者からの選定療養費(7,700円)徴収」は、全国の消防関係者および行政関係者に巨大な衝撃を与えた。「救急車の利用有料化」とも言えるこの試みは、メディアで賛否両論の苛烈な議論を巻き起こしたが、消防の現場を知る批判的アナリストの視点から言わせてもらえば、これは改革の第一歩などではなく、「国および消防行政が長年にわたり問題を先送りし続けた結果として現場に押し付けられた『制度の破綻処理』」に他ならない。

本稿では、『消防情報館』の専属アナリストとして、松阪市の事例が浮き彫りにした救急行政の構造的問題、無料原則という「呪縛」が生み出した現場の疲弊、そして総務省消防庁および自治体が放置してきた不作為の罪を徹底的に解剖する。

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1. 松阪市「選定療養費徴収」の衝撃と仕組みの実態

「7,700円徴収」のメカニズムと現場での変化

松阪市(および同圏域の多気町・明和町)が踏み切った制度は、厳密には「救急車の利用料」を取るものではない。救急車で市内3つの基幹病院(松阪市民病院、済生会松阪総合病院、松阪中央総合病院)に搬送された患者のうち、「医師が入院の必要がない(軽症)と診断した場合」に限って、紹介状なしで大病院を受診した際に発生する「選定療養費」として7,700円(税込)を徴収するという仕組みだ。

制度導入前、松阪市では軽症搬送の割合が半数近くを占めており、基幹病院の救急外来がパンク寸前に陥っていた。導入後のデータによれば、救急出動件数や軽症搬送率は一定の減少傾向を見せ、一定の抑止効果があったと報じられている。しかし、この制度の本質的な課題は「徴収判断の全責任が現場の医師と救急現場に跳ね返る」という過酷な構造にある。

なぜ他の自治体は追随できないのか:法制度と心理的ハードル

松阪市の試みが報じられると、全国の自治体から注目が集まったものの、即座に追随する動きは限定的である。その理由は明確だ。消防法第39条において消防事務は地方公共団体の基本的事務とされており、さらに「消防サービスの無償原則」という長年の慣行が存在するからだ。

さらに、行政や医療機関が最も恐れているのが「受診控えによる重症化・死亡リスク」である。「お金がかかるから」と救急車の要請を躊躇した結果、命を落とす事例が発生した場合、自治体や病院は猛烈な世論の批判に晒される。松阪市の制度は、まさにこの「市民の命を守る責務」と「救急体制の崩壊防止」という二者択一の板挟みの中で生み出された苦肉の策であり、全国共通の標準モデルになり得ていないのが現実である。

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2. 「救急車無料原則」という呪縛:日本社会が抱える構造的病理

「便利屋」と化した救急現場の実態

諸外国に目を向ければ、アメリカでは救急車を1回呼べば数万〜十数万円の請求が届くのが当たり前であり、フランスやドイツ、香港などでも条件付きまたは距離に応じた有料制が導入されている。これに対し、日本は「いつでも、どこでも、誰でも、無料で」救急車を呼べる世界的に見ても極めて手厚い制度を維持してきた。

しかし、この制度が「善意」と「モラル」によって支えられていた時代は過去のものとなった。現場の救急隊員が日々直面しているのは、以下のような目を疑うような要請である。

  • 「日焼けして皮膚がヒリヒリするから診てほしい」
  • 「蚊に刺されて痒くて眠れない」
  • 「タクシー代がないから病院まで乗せていってほしい」
  • 「病院の予約時間に遅れそうだから救急車を呼んだ」
  • 「一人で夜を過ごすのが寂しいから話を聞いてほしい」

これらは一部の極端な例ではない。消防庁の統計においても、救急搬送された患者の約半数(約47〜49%)が「入院を必要としない軽症」と診断されている。もちろん、本人が重症だと思って要請した結果が軽症だったというケース(不要不急ではないケース)も多いが、あきらかに便利屋扱い・タクシー代わりとした不適正利用が一定割合で確実に存在し、真に命の危険に晒されている重症者への到達時間を遅らせている。

消防法と日本国憲法第25条の拡大解釈

なぜ不適正利用を拒否できないのか。最大の障壁は消防法第2条6項および第17条の5等に基づく「不搬送の困難さ」にある。救急隊員は医師ではないため、現場で「あなたは軽症だから搬送しません」と医学的判断を下して拒否することは法律上極めて困難である。もし現場で拒否した直後に患者の容態が急変した場合、隊員個人および消防本部に過失責任が問われる。結果として、「不審に思っても乗せざるを得ない」という悪循環が定着してしまったのだ。

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3. 現場隊員が直視する疲弊と精神的ストレスの本音

専門サイト『消防情報館』として、最も声を大にして伝えなければならないのは、「現場の救急隊員たちが限界を迎えている」というナマの事実である。

「24時間勤務の中で出動が20件を超え、一度も仮眠を取れず、食事も移動中の車内でコンビニのおにぎりを5分で流し込むだけ。そんな状態が毎当番続き、隊員の精神は削り取られています。それでも現場に到着すれば『遅い!』と怒鳴られ、病院に着けば『こんな軽症で連れてくるな』と不機嫌な顔をされる。私たちは一体何のために働いているのでしょうか」
(関東地方・中規模消防本部 救急隊員(30代・救急救命士)の声)

過酷を極める勤務体制と「仮眠ゼロ・食事なし」の常態化

多くの消防本部では、救急隊員は当番(24時間勤務)の中で連続出動を余儀なくされている。出動と出動の合間に帰署して資器材の消毒や報告書の作成(1件につき膨大な書類作成が必要)を行い、完了する前に次の出動指令が下る。「連続出動10時間」「仮眠時間ゼロ」「深夜の連続搬送による判断力の低下」は、全国の都市部消防本部で日常茶飯事となっている。

このような極限状態での運転や処置は、当然ながら交通事故や医療ミスのリスクを跳ね上げる。現場の隊員は「人を救う情熱」ではなく、「事故を起こさないための冷や汗」を流しながら業務をこなしているのが現実だ。

搬送先が決まらない「救急搬送困難事案」と隊員の板挟み

さらに隊員を追い詰めるのが、受け入れ病院が決まらない**「救急搬送困難事案(いわゆるたらい回し)」**の急増である。照会件数が4回以上、現場滞在時間が30分以上を超える事案は全国で年間数十万件に達する。

車内で苦しむ患者と、不安に押しつぶされそうな家族。一方で、受入を拒否せざるを得ない医療機関の疲弊。その真ん中に立たされるのは、何の決定権も持たない現場の救急隊3名である。患者からは「早く病院に連れて行け!」と罵声を発せられ、病院からは「うちは満床だ」と断られる。この無力感とストレスが、若手・中堅救急隊員の離職や精神疾患(バーンアウト)の直接的な原因となっている。

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4. 批判的分析:消防行政・総務省消防庁の「先送り体質」と不作為

ここまでの惨状を招いた責任は、現場の隊員でも市民のモラルだけに帰せられるものでもない。真に批判されるべきは、「事態がここまで深刻化するまで有効な抜本策を講じず、啓発ポスターの配布程度で茶を濁してきた総務省消防庁および自治体首長・地方議会の不作為」である。

無力だった「適正利用のお願い」キャンペーン

消防庁や各地の消防本部は長年、「救急車の適正利用をお願いします」「救急車はみんなの財産です」といったポスターを作成し、マスメディアや広報誌で啓発活動を行ってきた。しかし、アナリストとして断言するが、「モラルに期待する啓発活動」は、過密化した現代社会において完全に敗北した。

「自分くらいは大丈夫」「税金を払っているのだから権利だ」と考える不適正利用者に対して、ポスターの標語は何の強制力も持たない。善意の市民だけが遠慮して受診を控え、悪質な利用者が得をするという**「逆選抜(モラルハザード)」**を発生させただけだったのだ。

制度設計の怠慢:トリアージと法改正からの逃避

政府および消防行政は、救急救命士の処置範囲拡大(インフォームドコンセントに基づく処置や特定行為の追加)には注力してきたが、「現場での要請拒否権」や「救急隊による搬送先選定権限の法的担保」といった、根幹に関わる制度改革からは逃げ続けてきた。

海外のように、指令課(119番通報対応)の段階で電話口で高度なトリアージを行い、緊急性がないと判断した場合は救急車を出動させず、タクシーの斡旋や翌日の受診を案内する制度(英国のNHS111など)を日本全土で法的に標準化する努力を怠ってきた。その結果、119番が鳴ればとにかく救急車を出し、現場で搬送する以外の選択肢を持たないという「昭和のシステム」のまま、令和の超高齢化社会になだれ込んでしまったのである。

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5. 救急体制崩壊を防ぐための抜本的構造改革案

では、現場を救い、真に命を救う救急体制を再構築するためには何が必要なのか。『消防情報館』では、以下の3つの抜本的改革を提案する。

① 「一律有料化」ではなく「悪質利用・軽症利用への後払いペナルティ制」の全国法制化

救急車の利用そのものを一律有料化すると、低所得者層や高齢者が真の緊急時に利用を躊躇するリスクがある。したがって、目指すべきは松阪市の事例をさらに発展させた**「法的根拠に基づく後払い選定費用制」**の全国一律導入である。

具体的には、搬送先の医師が「あきらかに緊急性がなく、公共インフラを不当に阻害した」と認定した場合、あるいは事前に#7119等の相談ダイヤルを経由せずに軽症受診した場合に限り、自治体が1万〜2万円程度の「不適正利用手数料」を徴収する法律を制定すべきだ。得られた財源は救急隊員の労働環境改善や医療機関への支援金に充当する。

② 「#7119(救急安心センター)」の全自治体強制義務化と119番との完全統合

現在、救急電話相談窓口である「#7119」の導入は全都道府県で完了しておらず、エリアによって利用できるかどうかに偏りがある。これを全国で一刻も早く義務化し、さらに**「119番通報時にAIおよび看護師・プロのオペレーターが初期トリアージを行い、緊急度が低い場合は救急車を出動させない権限」**を法的に与えるべきだ。

市民に対して「迷ったら#7119」を徹底させ、119番へ直通した通報であっても、非緊急と判定された場合は自動的に#7119へ転送して民間救急(患者等搬送事業者)やタクシーの手配に切り替える仕組みを標準化しなければならない。

③ 救急隊の勤務構造の改革と「救急専門職」としての独立

現在の日本の消防組織では、多くの場合、警防(消火)隊員や救助隊員、救急隊員が組織内でローテーションする体制をとっている(あるいは兼務している)。しかし、年間700万件を超え、医療技術が高度化した現代において、救急業務はもはや「兼業」でこなせるレベルではない。

救急部門を専門職化し、交代制の厳格な運用(完全な休憩・仮眠時間の法的保障、出動件数の上限設定、シフト間インターバル規制の導入)を義務付けるべきだ。現場の隊員を過労死やバーンアウトから守る労働法制の適用こそが、救急医療を守る最大の防壁となる。

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おわりに:悲鳴を上げる現場を見捨てる国家に未来はない

松阪市が投げかけた「選定療養費7,700円」という石は、静まり返っていた救急行政の池に巨大な波紋を広げた。この試みを「冷たい行政」と批判するのは簡単だ。しかし、本当に冷酷なのは、現場の救急隊員が疲弊し、心身を病み、真の重症者が救急車を何十分も待たされて命を落とす現実を知りながら、「無料の救急車」という甘い幻想を守るために何もしないことではないか。

救急車は無限に湧き出る魔法の資源ではない。限りある国民の共同財産であり、高度な医療資器材と訓練された専門職で構成される「精密な生命維持システム」である。

行政と政治、そして私たち市民は、いまこそ「無料原則」の呪縛を解き放ち、持続可能な救急体制の再構築に向けて痛みを伴う議論を始めなければならない。現場の消防隊員が流す汗と涙を、これ以上「使命感」という言葉で浪費させてはならないのだ。

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