1. はじめに|公務災害書類改ざんという“禁じ手”
今治市消防本部で起きた、ある「書類改ざん事件」。
パワハラによって職員が精神疾患を発症し、公務災害の申請が出されたが、その書類が上司の手によって無断で改ざんされた。報道によれば、上司は「把握していた内容と異なっていたため書き換えた」と釈明している。
この一件は、たった一枚の書類の話かもしれない。だが、そこに記された「事実」は、職員の人生を左右し、組織の責任を問う起点となる重みを持つ。
それを“勝手に書き換えた”という行為は、明らかに「情報の私物化」であり、組織的な加害の二次被害とも言える。
しかし、驚くべきことに、こうした「書類の書き換え」は決してレアケースではない。少なくとも、筆者の経験上、それはごく日常的に、誰の目も届かないところで繰り返されていた。
そして今、報道という外部の力によってようやく公になったこの事件を前に、「これは氷山の一角である」と記録しておく責任が、私たちにはある。
2. 経験として語る:書類の改ざんは日常的にあった
私が長い日勤勤務のなかで、最も深く衝撃を受けた瞬間──それは、数々の書類が、明らかに事実と異なる形で「改ざんされていた」ことに気づいたときだった。
最初は、気のせいかと思った。
「そう記録するしかなかったのかもしれない」「上司の指示かもしれない」と自分に言い聞かせた。だが、調べるうちに確信に変わった。
改ざんは組織的な判断ではなく、個人の出世のために行われていた。
パワハラ事案があった現場で、本来なら「不適切な指導があった」と書かれるべき内容が、「指導上の行き違い」「部下の誤解による精神的不調」という表現に書き換えられていた。
私は、そのことを指摘し、徹底的に詰め、是正を求めた。
だが返ってきたのは、「了解しました」との口頭の返事だけで、実際に書類が訂正されることはなかった。
そして、それが「私一人だけの主張」になるとわかった瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。
書類を正すには、“正義”だけでは足りない。
証人、記録、組織内の力関係、上層部の意向──すべてが揃っていなければ、正しさは正しさとして扱われない。
結局、私はその現場で孤立した。
他の誰もその改ざんを問題視せず、むしろ「よく収まった」「波風を立てなかった」と評価される始末だった。
3. 「もみ消し文化」の実態と、それが当たり前になる構造
消防という組織において、もっとも頻繁に交わされる“闇の言葉”のひとつがある。
「●●消防署でパワハラだのとかいう騒ぎがありましたが、私がしっかりもみ消しておきました。」
この言葉を、私は一度や二度ではなく、何度も何度も耳にしてきた。
それは武勇伝のように語られることもあれば、感謝の言葉とともに交わされることもあった。
「いつもありがとう。これからもよろしく頼むよ。」
まるで「問題を処理すること」が能力であり、「事を荒立てないこと」が組織貢献であるかのように。
私は、パワハラやセクハラの情報が比較的早い段階で上がってくる立場にいたことがある。
だからこそ、そういった言葉が冗談ではなく、本気で“評価されている”空気を、現場で肌で感じていた。
組織というのは恐ろしいもので、最初は「おかしい」と思っていた行為も、それを正当化する言葉が繰り返されるうちに、「そういうもんか」と思わされてしまう。
- 苦情を受け止めた者が「余計なことをした」と言われ
- 声を上げた当事者が「協調性に欠ける」と評され
- 問題を隠蔽した者が「頼れる存在」として重宝される
これが、「もみ消し文化」の正体である。
もみ消しが“文化”になってしまった組織においては、正しい告発や報告は異物として扱われ、やがて誰も口を開かなくなる。
口を閉ざす人間だけが生き延びる。
そしてその静寂が、「問題がないこと」の証拠として機能するようになる。
それは、記録に嘘を書くよりも、記録させないほうが効率的だという、悪意の進化形である。
4. 書類文化と“言葉の支配”:記録に勝る正義なし
消防組織において、“書類”というものは極めて強い力を持っている。
上申書、報告書、始末書、査定資料、訓練記録、災害出動記録、指導記録、災害評価…。
言ってしまえば、消防という現場の99%は“非言語”で動いている。
火災現場で叫ばれる声、煙の流れ、隊員同士のアイコンタクト、判断の一瞬──それらは書類には残らない。
だからこそ、書類に記録された“言葉”がすべてになる。
その「すべて」が、誰かの意図によって書き換えられたとき──
真実が死に、虚構が“公的な記録”として未来に残る。
今治の件でも同じだ。
- 上司が「自分の把握していた内容と違ったから」と言って書類を改ざんした
- だが、そもそもそれは「把握していた内容」が誤っていた可能性すらある
- にも関わらず、「上司の主観」が「記録」そしじ「事実」にすり替えられた
この瞬間、書類が持つ「証拠としての力」は、真実を守る盾ではなく、虚構を守る壁になってしまう。
消防の世界では、記録に基づいて処分が下され、査定がされ、功績が認定され、昇進が決まる。
つまり、記録されたものが「現実」になる。
それを“勝手に”書き換えるというのは、
もはや現場の判断や価値観を凌駕して、「未来の歴史を書き換える行為」だ。
5. 誰のための記録か──その一枚が未来を決める
「誰のために書類を作るのか?」
この問いは、消防組織におけるあらゆる業務に通底している。現場で何が起きたのか。誰がどう判断したのか。どんな課題があったのか。それらすべては“報告”という形で記録に残され、組織運営の根拠となっていく。
だが、その「記録」の正確性に対する信頼が損なわれたとき、私たちの社会は何を根拠に正義を判断すればよいのか。
今回の今治市消防本部のケースでは、公務災害申請書というきわめてセンシティブで個人の権利に関わる文書が、上司の主観によって無断で書き換えられた。本人の了承も確認もなく、「異なると感じたから」という理由で。
一体、これのどこが許されるのだろうか?
改ざんがあった時点で、その書類は「虚偽の文書」となり、申請そのものの信頼性を失う。そしてその結果、精神的な傷を負った当事者が二重に傷つけられる。
- 一度目の傷は、パワハラそのもの
- 二度目の傷は、それを否認される改ざんという行為
しかも、こうした事例は氷山の一角でしかない。報道されるのは、極ごく一部だ。現実には、こうした「記録に殺される」人たちが、各地で、静かに、声を出せないままに押し潰されている。
私は知っている。
実際に改ざんに気づいて声をあげたが、誰も味方がいなかったあのときの孤独を。
「証拠がないなら無かったことにされる」という無力さを。
そして私はこうも知っている。
書類を“整えて”出世する者が組織の中枢に入り、やがてその者が部下の記録を再び“整えて”いくという、連鎖の構造を。
だからこそ、私たちは記録に対してもっと真剣でなければならない。
それが誰のためにあるのか、何のために残すのか。
「組織の保身」のための記録か、「真実の証明」のための記録か。
記録とは、人を守る盾であるべきだ。
そして、それを盾として機能させるためには、「書いた人間」と「書かれた中身」の誠実さが求められる。
今治の一件を、単なる一地方の不祥事として片付けてはならない。
これは、全国すべての消防本部、すべての自治体組織、すべての公務員に突きつけられた「記録と責任」の問題である。
正義は、消されることがある。
だが、その記録を誰かが残していれば、
正義は、いつか再び声を取り戻す。
組織が消したがることを、
個人が言えなかったことを、
一度だけでなく、何度でも書き残していくこと。
それこそが、記録にできる最大の抵抗であり、
この国の消防を、現実から見つめ直すための第一歩なのだ。
とはいうものの、消防本部内にはこれらを是正するだけの正義感も能力も残っていないのが事実なのであろう。