【消防士殉職火災の不起訴処分】【静岡】責任を問えない司法と、無謀を美徳とする消防組織の構造的病理

静岡市 中部地方
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火災の概要と処分結果

 2024年8月、静岡市葵区の雑居ビルで火災が発生し、消火活動にあたっていた静岡市消防局の男性消防士(当時37歳)が殉職するという痛ましい事故が起きた。

 現場は商業テナントが入る複合ビルであり、消防による初動対応は迅速だったとされる。しかし、この火災では、避難完了後の状態で消防士が屋内に突入し、その結果として殉職したという点が極めて重大である。

 この件に関して、火災当日、消防士に屋内侵入を指示した元小隊長(40代男性)が業務上過失致死の容疑で書類送検されていたが、2025年8月7日、静岡地検は不起訴処分とした。

 不起訴の理由として、検察は次のように説明している。

「屋内侵入の活動時に命綱を結着させたとしても、殉職された消防士が焼死する結果を防ぐことができたと認めるのは困難」

 つまり、「命綱があっても助からなかった可能性があるため、因果関係が明確ではない」として、現場指揮官の刑事責任は問わないという結論に至ったのだ。

 一方で、火災の直接の原因となった飲食店の元店長(36歳)については業務上失火の罪で起訴されており、火災責任の所在は店舗側にあるという形での処理となっている。

この対比は、刑事責任と組織責任の間に深い乖離があることを示している。

燃え盛る建物へ突入させる風土、それは誰の評価軸か

 今回の火災で最も注目すべきは、そもそも屋内への突入が必要だったのかという根本的な問題である。

 消防活動の原則として、人命救助が第一であることは言うまでもない。

 では、すでに避難完了後の建物に命の危険を冒してまで踏み込む必要が本当にあったのか。この点について、地検の説明には一切触れられていない。

 命綱の有無以前に、消火活動だけのために突入するという判断自体が妥当だったのかどうかを検証する必要があるはずだ。

 しかし、実態としてはそうした冷静な安全判断が下されていたとは考えにくい。むしろ、この消防本部においては、燃え盛る建物に突入する勇気暗黙のうちに高く評価される風土があったのではないか。

 これは日本各地の消防組織に共通する傾向でもある。いまだに危険な任務を引き受けた者こそが本物の消防士という前時代的な英雄観がまかり通っており、合理的な判断や安全最優先の行動が評価されづらい。

 突入精神気合い・根性が行動原理を支配し、安全マネジメントは後回しにされがちだ。

 そして、現場の指揮官もまた、この歪んだ評価軸のなかで行動していた可能性が高い。自らのキャリアや周囲の視線、後輩たちへの見せ場といった意識が無意識のうちに働き、本来であれば躊躇すべき指示を「当然の判断」として下してしまったのではないか。

 さらに悪いことに、こうした行動は結果的に殉職を招いても責任を問われにくい構造ができあがっている。突入は美談として処理され、批判はタブー視され、指揮官は不起訴となる。

 そして殉職者は組織の「誇り」として顕彰される。あたかも無理をして当然という集団幻想のなかで、命が使い捨てられているのである。

 この構造において、過失を問われるのは常に「火元」や「外部の要因」であり、組織内の意思決定には検証のメスすら入らない。今回もその典型例だといえる。

安全管理の欠落と、曖昧にされる責任の所在

 消防活動において、突入の可否を判断するのは現場の指揮官である。したがって、その判断が適切であったか否かは、組織の生死を分けるほどに重要な意味を持つ。

 しかしながら、今回の事案において、屋内突入の必要性やそのリスク評価がどう行われたのかは、まったく明らかにされていない。マスコミもまた、そこを突っ込む報道をほとんどしていない。まぁ、知識のある者がいないというか、客観的に総合的に判断ができる人がいないのだから仕方がない。

 本来ならば、なぜその指示が出たのか なぜ止められなかったのか 同様の指示が繰り返されていないか といった視点から、組織的な検証が内部でも外部でも求められるべきだ。

 だが現実には、「命綱の有無」だけに責任の焦点が絞られ、現場の判断や上層部の責任はスルーされる形となった。

 これは、いわばあれであるうんあれあれである。

 本来、命綱が適切に使われていたかどうかは、突入を決めた前提条件の一部にすぎない。その前段階である「なぜ入ったのか」が不問にされたまま、「入った後の装備」にしか関心が向けられていない。

 このようにして、組織全体としての安全管理体制は棚上げされ、指揮系統の誤りも、リスクマネジメントの欠如も、問題視されることなく葬られていく

 そして何より深刻なのは、このような死亡事故が発生しても、組織の構造や文化が反省もされず、修正もされないままであることだ。

 今後もまた、「突入することに意味がある」「勇気を持って火の中に入る者こそ真の消防士だ」といった暴力的な価値観が暗黙のうちに継承されていく可能性が高い

 今回、地検が不起訴という処分を下したことで、結果的に「誰も責任を取らない」まま殉職だけが記録されることになった。その構造はあまりに不健全であり、殉職者に対する最大の侮辱ともいえる。

なぜこの構造は温存され続けるのか

 では、なぜこのような危険と紙一重の行動が称賛され、責任の所在は曖昧にされ、事故が繰り返されるという構造が是正されないのか。

 理由は明確である。それは、消防という組織自体が自己批判を許さない閉鎖的な共同体であるからだ。

 消防組織においては、たとえ内部で問題意識を持ったとしても、それを外部に訴えることは組織への「裏切り」とみなされかねない。批判精神は育たず、内部告発は組織不適合者として扱われ、沈黙と同調が保身の手段として機能する

 また、行政も政治も、消防を過度に神聖視し、批判をタブー視してきた。消防士は「命を懸けて働く崇高な存在」としてメディアや市民から讃えられ、その裏側にある制度的な欠陥や人命軽視の構造には目が向けられてこなかった。

 こうして、「正義の象徴」としてのイメージの裏で、実際には命を過剰に投げ出すことが当然とされる組織文化が形成され、それに疑問を持つ者は異端とされてしまうのだ。

 今回の不起訴処分も、そうした文化に沿った決着の一つといえる。つまり、個人の責任は問わない代わりに、組織の問題も問わない。何も変わらない、誰も反省しない。それが現在の消防行政の現実である。

 そして、最も忘れてはならないのは、こうした沈黙の構造の中で、確実に次の殉職者が生まれるということだ。

 それが組織にとって「不運な事故」として処理される限り、同じ構造は繰り返される。

命綱があったかどうか】ではなく、【なぜ命を懸ける必要があったのか】。この問いを封じたまま殉職の記録だけが残り、消防組織は今日も同じ体質を保ち続けている。

突入現場は聖域か、それとも免責の空間か

もし今回のような判断が社会的に容認されるのであれば、それは極めて危険な前例となる。

 火災現場における一切の行動が「正義」として正当化され、検証不能な死が「事故」として葬られる社会を、我々は認めてしまったことになる。

 極端に言えば、たとえ火災現場において気に入らない部下を「命令」という形で炎上空間へ送り込み、死なせたとしても
・その場が燃えていた
・命令が業務の一環だった
・死因が即時に特定できない

 といった条件さえ整えば、その死は「殉職」として美化され、誰の責任も問われずに処理されてしまうのである。

 実際、今回の地検の説明はまさにそれを許す論理構造だった。
命綱をつけていても死は防げなかった可能性がある
という理由で不起訴とされたが、それは裏を返せば、現場に連れて行きさえすれば、その後に何があっても「結果論」で片づけられるということを意味している。

 さらに、突入そのものが不要だったとしても、建物が燃えていたというだけで、「進入には正当性があった」とされてしまうのであれば、火災現場というのは事実上の治外法権になりうる

誰もいない建物でも「突入命令」は正当
命令に従った者が死んでも、それは事故
その命令を下した者は誰にも責任を問われない

 こうした構図が成り立つのであれば、最悪のケースでは、建物火災を利用した意図的な殺人でさえ、組織の内部で完結する形で「処理」されてしまう危険性すらある。

 我々が今回突きつけられているのは、個々の責任追及の可否ではなく、火災現場という特殊空間を免責の温床とするか否かという社会的な選択である。

 そして、今回の判断は、残念ながらその最悪のシナリオすら排除できないことを証明してしまった。そのことの重みを、静岡市消防局も、検察も、行政も、そして市民も、自覚すべきである。