ニュースの概要:市民による救命を推進
2025年6月、とあるの消防局が「アクティブ・バイスタンダー」の育成に力を入れていることが報じられました。「アクティブ・バイスタンダー」とは、事故や急病の現場に居合わせた市民が、自発的に心肺蘇生やAED使用などの救命処置に関与する人を指します。
報道によれば、背景には以下のような事情があります。
- 救急件数の増加
- 現場到着時間の長期化
これらに対応する「新たな方策」として、消防局は市民の協力体制を強化しようとしているのです。
一見、意義ある試みに見えるかもしれません。しかし、ここには重大な論理の飛躍が存在しています。
「目的と手段」の関係が成立していない
本来、政策や施策は「目的→課題→手段」という順序で構成されるべきものです。今回の発表では、課題として「救急件数の増加」および「現場到着までの時間の長期化」が示されていますが、そこから導き出された解決策が「市民による応急手当の推進」というのは、どう考えても短絡的です。
そもそも救急件数が増えているというのであれば、まず優先されるべきは不必要な救急要請の抑制であり、例えば高齢者施設との連携強化や、夜間の軽症事案に対する一次対応制度の再設計など、行政側が主導する制度的アプローチが必要なはずです。
また、現場到着までの時間が伸びているのであれば、それは交通事情や配置バランス、出動優先度の管理体制の問題であって、やはり組織側の運用の見直しがまず議論されるべきです。
しかし、そこで提案されたのは「市民に頑張ってもらう」という話。
つまり、消防が直面している課題に対して「市民が勝手に助けてくれればいい」という方策を正面から掲げてしまっているわけです。本来なら内部改革で対応すべき課題に、外部の善意をもって“代替”しようとする――これが今の消防組織の限界を如実に示しています。
「救急件数の増加に対応する」ことと「救命率を上げる」ことは同義ではない
さらに問題なのは、消防局自身が「何を最終目的としているのか」を見失っていることです。
救急件数の増加、現場到着時間の延長――これらは手段でも目標でもなく、単なる現象です。
本来、消防組織の目標は「救命率の向上」や「緊急度に応じた最適対応の実現」であるべきです。
極端に言えば、救急件数が倍になろうと、現場到着までに倍の時間がかかろうと、救命率が上がっていればそれは成功と評価されなければなりません。
逆に、アクティブ・バイスタンダーをいくら増やしても、その結果として救命率が変わらないのであれば、それは政策として失敗です。にもかかわらず、消防局は「市民の行動変容」という過程にばかり着目し、その先にあるアウトカムである救命率に対する評価指標や検証の枠組みをほとんど示していません。
このように、目的と手段のすり替えが起こっているという点で、消防行政の論理的な整合性は極めて不十分と言わざるを得ません。
「1分1秒が生死を分ける」——感情に訴えるだけの常套句
消防広報の中でよく使われるのが、「1分1秒が生死を分ける」というフレーズです。これはある意味で真実ですが、同時に極めて危険な言葉でもあります。
なぜなら、この一文があれば、どんな論理の飛躍も正当化できてしまうからです。
救急件数が増加?——1分1秒が大事だからアクティブ・バイスタンダーを育成します。
現場到着が遅れる?——だから市民に救命処置を求めます。
人手が足りない?——だから一般市民の力を借ります。
こうした感情的訴求の繰り返しによって、組織は「真にやるべきこと」から目を背ける構造を作り出しています。つまり、政策判断に必要な論理性と根拠性が、情緒的なスローガンで塗りつぶされているのです。
市民に向かって「あなたの行動が命を救う」と呼びかける一方で、自分たちの組織運用にはメスを入れない。出動要請の取捨選択は曖昧なまま、勤務体制も過去の慣習に依存し、制度改革の議論はおろそかにされたまま。——これでは、どれだけ市民を動員しても本質的な改善には至らないのは当然です。
組織改革を避け、他者に責任を求める文化
今回の「アクティブ・バイスタンダー」養成方針には、根本的な問題があります。それは、課題の本質が自分たちの組織にあるのに、解決を市民に委ねているという姿勢です。
救急車が遅れているなら、自分たちのリソース管理、出動基準、基地配置、道路情報整備のあり方など、いくらでも改革すべき点があります。それにもかかわらず、打ち出された政策が「市民教育」というのは、単なる責任の転嫁でしかありません。
実際、「教育しても使われなければ意味がない」という批判に対し、「市民の意識が変わらないからだ」とする反論が出てくる構造が予想できます。——こうなると完全に倒錯しています。
本来、行政機関の役割は、「市民にとって最も効果があり、持続可能な施策を設計し、責任を持って実行すること」であって、「市民の善意を前提に政策を組み立てる」ことではありません。ましてやそれを本来は公的責務である救命対応の代替とするなど、職務放棄のようなものです。
自らの実力不足をごまかす「美名の装飾」
アクティブ・バイスタンダーという言葉は、一見して“意識の高い取り組み”のように響きます。しかし、その実態は、現場の課題を論理的に整理し、それに即した具体的な対策を設計できない人たちが、外部に対して「頑張ってます感」を演出するための美名であるともいえます。
要するに「良さそうな言葉で塗り固めた、思考停止の政策」なのです。
「応急手当てを覚えてください」「市民の力が必要です」などと呼びかければ、多くの人は善意で納得するでしょう。しかし、その裏でなされているのは、「我々には現実的な対処能力がない」「新しい運用設計を構築する力もない」「だから市民に助けてもらうしかない」という、無策と無能の偽装工作です。
目的なき活動は“善意”ではなく“逃避”になる
もう一度、本来の話に立ち返りましょう。
アクティブ・バイスタンダーの育成自体が無意味だとは言いません。実際に現場に居合わせた市民が胸骨圧迫を行うことで、救命率が改善されることは数多くの研究で示されています。
しかし、その「手段」が選ばれるには、「何を目的とするのか」が明確でなければなりません。救命率の改善が目的なのか、現場対応の平準化なのか、あるいは行政の負担軽減なのか——この部分を曖昧にしたまま、手段だけを声高に掲げるのは、実行主体としての組織の論理性の喪失です。
問題の本質は、「善意の市民を増やすこと」ではなく、「なぜ自分たちの組織だけでは救命率が上がらないのか」を徹底的に分析し、制度設計と人材育成にフィードバックさせる仕組みがないことにあるのです。