「訓練」と「競技」の境界線が曖昧になったとき
消防救助技術指導会──それは本来、消防隊員の救助技術を高め、現場における安全かつ的確な対応を目指すべき訓練の場である。しかし、近年の指導会は単なる“訓練”ではなく、組織の威信をかけた“競技”へと変貌しつつある。
もちろん、救助隊員が高い身体能力と技術を持ち、それを日常的に訓練していること自体は重要である。だが、その訓練が形式的な演目として競技化され、さらには成績によって評価が左右されるようになれば、もはやそれは「実戦に活きる訓練」とは言い難い。
本記事では、全国で行われているこの消防救助技術指導会の実態について、現場と制度の両面から検証し、そこに潜む構造的な問題を記録する。
技術の向上より“演目の完成度”を競う矛盾
指導会における代表的な種目──ロープブリッジ救出、引揚救助、障害突破──は一見、災害現場を想定した実践的な訓練に見える。しかし、その実態は、定型化された動作をいかに正確に再現できるかを競う演目に過ぎない。
タイム、姿勢、動線、掛け声、隊員間の間合い…あらゆる要素が審査対象となり、まるで舞台芸術のような「完成度」が要求される。確かにその完成度を高める過程で技術は一定向上するかもしれない。だが、そこで養われるのは「演目対応力」であり、「現場対応力」ではない。
現場の災害は予測不能であり、マニュアル通りに進むことはない。瓦礫の配置、被災者の状況、天候、空間の制約、時間的猶予、複数現場の同時対応──そのすべてに即応するには、即席の判断力と状況把握能力が必要だ。
一方、指導会の種目は毎年ほぼ同じ内容が繰り返され、数カ月かけて「決められた動き」を「繰り返し練習」する。その訓練の本質は、むしろ型を覚えることにあり、柔軟性や応用力の育成にはつながりにくい。
つまり、消防救助技術指導会がめざす“救助技術の向上”という名目は、その手法の選び方次第で目的と手段の逆転を引き起こす。実戦から乖離した演目をいくら磨いても、それはあくまで「競技の勝敗」であり、「現場での成果」とは一致しない。
消耗する隊員たち──競技への参加がもたらす負担と疲弊
消防救助技術指導会のもう一つの大きな問題は、それに関わる隊員の過剰な身体的・精神的負担である。
全国各地で行われる地方指導会やその上位にあたる全国大会では、代表選手となった隊員が数カ月前から集中的な訓練を課される。練習は早朝・日中・夜間にまで及び、本来の勤務時間外も練習が続くケースがある。職場によっては「名誉のためにやるべきだ」という暗黙の圧力も存在し、参加する隊員は休む暇もなく身体を酷使する。
特に問題なのは、訓練の過酷さが現場とは無関係な方向に進んでいる点だ。競技の性質上、秒単位での動作の速さや完璧なフォームが求められ、結果として「ミスを許さないための徹底反復」が行われるようになる。
その反復は、実戦で想定されるバリエーションや想定外への対応力を養うものではなく、「型」を叩き込むだけの修練である。言い換えれば、災害現場で必要とされる“臨機応変な判断力”ではなく、“記憶された動作を高速で再現する力”に重点が置かれてしまうのだ。
その結果、訓練疲労による体調不良やメンタル不調、通常業務との両立による慢性的なストレスが積み重なる。誰もが望んで競技に臨んでいるわけではない。むしろ、半ば“やらされている”という感覚の中で訓練を続けている隊員も少なくないのが実態だ。
評価の歪み──組織内で“上に立つための手段”と化す指導会
さらに深刻なのは、消防救助技術指導会が組織内の評価制度と結びついていることだ。
多くの消防組織では、指導会で好成績を収めた隊員は評価され、場合によっては昇任・人事配置などに有利に働く場合がある。特に地方本部では「大会の成績=組織の顔」として扱われる傾向が強く、上司や幹部からの期待を一身に背負わされる。
こうした構造がもたらすのは、現場力”ではなく“大会力”が出世に直結するという歪みだ。現場で的確な判断をし、地道に災害対応にあたってきた隊員よりも、数回の大会出場経験を持つ隊員が“有能な職員”として扱われる。
その結果、「競技訓練に長けていれば評価される」という誤ったメッセージが組織内に流布され、能力よりも“パフォーマンス”を重視する風土が形成されてしまう。現場での失敗は黙殺され、大会での成功が栄誉として称えられる。
これは、組織として非常に危険な傾向だ。なぜなら、消防という職業は“目に見えない成功”の連続で成り立っており、出動数や対応件数よりもいかに事故を防ぎ、被害を最小限に抑えたかが本質だからだ。
それにも関わらず、「見える結果」「分かりやすい勝敗」が評価の指標となってしまえば、本来注目すべき現場の積み重ねは無視されていく。それでしか評価することのできない人材が消防を占めているという点も注目するべきであろう。
「安全・迅速・的確」から逸脱する訓練の意味
消防活動において最も重要なのは、「安全・迅速・的確」である。これは災害対応の鉄則であり、訓練や教育においても必ず強調されるべき三原則だ。
ところが、消防救助技術指導会では、これらの原則がしばしば形式美や記録更新への執着によって後回しにされている。
例えば、秒単位で記録を競うために、ロープの巻き直しや安全確認が省略されるような動作が定着していたり、障害突破の場面でリスクの高い飛び越え動作が繰り返されることがある。これらの動作は“競技としては高評価”であっても、実戦ではあり得ない、むしろ危険とされる行動である。
このような競技用の動作を何十回、何百回と反復する訓練は、「安全に活動する感覚」そのものを狂わせかねない。
一部の消防職員の間ではすでに、「訓練でできるようになったことは、実戦ではやってはいけないことばかり」と揶揄されるような声すらある。つまり、実戦で必要な慎重さや柔軟さを損なう恐れがある訓練になっているということだ。
ここで改めて問うべきは、「何のために訓練をしているのか」という根本的な目的である。住民の安全を守るための技術を磨くためか、それとも競技として“魅せる”ためか。もし後者が前者を上回っているなら、それは本来の訓練の意義から逸脱している。
総括:誰のための指導会か──本記事が記録しておくべきこと
本記事で取り上げたように、消防救助技術指導会には確かに「技術向上」「士気高揚」「連携強化」といった利点がある。一方で、実戦と乖離した形式訓練の繰り返し、隊員への過剰な負担、組織内評価の歪み、そして安全意識の低下といった重大な課題も無視できない。
本記事を記録として残す意義は、「誰も語ろうとしないが、確かに現場で起きていること」を記録することにある。表向きの「成功」「努力」「感動」だけが伝えられるのではなく、その裏で疲弊し、違和感を抱きながらも声をあげられない人たちの存在を忘れてはならない。
消防という職業の本質は、目立たない、報われない、しかし確実に人の命を守る“静かな努力”にこそあるはずだ。華々しい競技の場で評価を得ることが目的化してしまえば、その静かな努力は埋もれていく。
だからこそ、今後もこのような「構造の歪み」に目を向け、記録し続けていく必要がある。どんなに立派な表現で飾られても、それが実態を歪めるものであれば、批判と記録の言葉が必要なのだ。