サイトアイコン 消防情報館

なぜ「考えない消防士」が増えているのか

論文 作文

思考停止した職業集団のゆるやかな崩壊


スポンサーリンク

「考える」という行為を経験しないまま大人になった人々

 「考えない消防士が増えている」。この指摘に過剰反応を示す人もいれば、むしろ納得を示す関係者も少なくないだろう。だがここで問題にしたいのは個々の資質ではなく、「なぜ考えない人たちが消防に集まり、残っていくのか」という構造の方だ。

 そもそも“考える”とは、既存の情報を取捨選択した上で、自分なりの仮説を立て、判断し、行動に移すという一連の流れを意味する。ところが、今日の日本においては、義務教育から高校・専門学校、大学と進んでも、深く考える訓練を受けずに社会に出る人は珍しくない。

 たとえば、受験のために詰め込まれた知識はあっても、それを日常生活や社会のなかで応用できるような訓練はされていない。進学先が消防学校であればなおさらで、ここでは規律や反復、形式的な研修が重視され、「なぜその行動をとるのか」「現場で何を判断する必要があるのか」という“思考の根拠”が育つ余地は限られている。

 そうして、「上の指示に従っていれば大丈夫」「とにかく失敗しなければいい」といった姿勢が染みついていく。それがそのまま、思考の放棄と“服従”の習慣となり、職業人生の初期段階から「考えない」ことが暗黙のルールとなってしまうのである。


スポンサーリンク

“考えない人にとって快適な職場”という構造的欠陥

 消防という組織は、ある意味で非常に特殊な環境を提供している。まず第一に、公務員であるがゆえの雇用保障がある。そして、組織内での意思決定は縦割りであり、個々人の自由裁量はほとんど存在しない。言い換えれば、「考えなくてもまわる仕組み」ができてしまっている。

 しかも、多くの現場では「上司の指示を聞くこと」こそが正義とされ、自己判断を挟むことにリスクが伴う。たとえ判断の内容が妥当であったとしても、「勝手な行動」として咎められるのだ。そうした環境で育った職員は、「余計なことを考えるのはやめておこう」と自分に言い聞かせるようになる。

 この結果、何が起こるか。組織全体が「前例踏襲」や「空気を読む」ことに汲々とし、新しい取り組みや改善が一切進まない。現場では不合理なルールが形骸化したまま放置され、上からの指示がなければ何も動かない状態が常態化する。

 そのうえ、こうした組織は、外部からの批判にも極めて鈍感だ。なぜなら、組織内での評価基準は「上司に嫌われないこと」「無難にやり過ごすこと」だからである。世間や市民の目ではなく、上役の顔色をうかがって生き延びるために、考えないことはむしろ“処世術”として正解になってしまうのだ。

 その結果、Instagramで踊りだしたり歌いだす消防職員が発生したともいえる。

スポンサーリンク

思考停止する組織がもたらす弊害

 “考えない人”たちによって構成された消防組織は、当然ながら重大な弊害を抱えることになる。最も深刻なのは、ミスや事故の再発が防げないという点だ。

 たとえば、「設定変更を忘れて仮眠室に指令が届かず、出動が6分遅れた」という名古屋市消防局の一件などは象徴的である。人命に関わる救急出動において、6分の遅れは致命的なタイムロスである。その原因が“指令が届かない設定になっていた”という技術的な問題でありながら、それを誰も点検せず、チェックもされないまま放置されていたという事実は、完全に思考停止の象徴といえる。

 本来であれば、仮眠体制に入る前に、全機器のチェックを行うべきである。そしてその習慣が自然と根付いていなければならない。だが、現場では「そういうものだ」「いつも通りやっているから問題ない」という根拠なき慣例に支配され、チェックリストも形骸化し、“点検することを考える”という発想すら失われている。

 このような状態では、新しいシステムを導入したとしても意味がない。現場の職員が“考えること”を放棄していれば、いくら立派な装備や制度があっても、いざというときにそれが役に立たないからである。人命に関わる最前線において、これほど深刻な問題はない。


スポンサーリンク

考える職員が“異物”とされる悲劇

 さらに厄介なのは、“考える職員”が少数派となり、むしろ組織内で異物として排除される構造があることだ。

 自分の頭で考え、問題点を指摘し、改善提案をしようとする職員は、現場では煙たがられる。なぜなら、それは既存の慣習や上司の指示を疑う行為と見なされるからだ。「波風を立てるな」「お前だけ目立つな」といった空気がまん延し、最終的には“面倒な奴”というレッテルを貼られて孤立していく。

 結果、真剣に仕事を考え、より良い現場を目指そうとした職員ほど、やり場を失い、早期退職や異動願いを出すことになる。「いかに考えないか」が出世の条件になってしまえば、その組織はもう終わっている。現場に残るのは、上からの指示をただ受け取るだけの、“思考停止した労働者”だけになる。

 これは個人の資質の問題ではない。仕組みがそうさせているのだ。消防組織が、かつてのように使命感や矜持に溢れた現場ではなくなり、あらゆる責任を“無難にやり過ごす”ためだけの空間になってしまったことの証左である。

スポンサーリンク

思考の放棄に“気づけない”という絶望

 最大の問題は、「考えない」という行為を本人たちが“自覚できていない”ことである。自分たちは「日々命懸けで活動している」「プロとして真剣に取り組んでいる」と本気で信じている。だがその実態は、指示をただ遂行し、慣例をなぞるだけの、思考のない毎日にすぎない。

 これはある意味で、極めて不幸な状態だ。本人にとっては“やりきった一日”であり、“誇らしい勤務”であるのに、周囲から見れば「また何も変わらなかった」「またミスが繰り返された」としか評価されない。なぜか?——それは「考える」という行為が、過去に一度も必要とされなかったからである。

 消防士の多くは、高校卒業や短期大学卒業後に消防学校に入り、階級制度の中で年功序列に守られながら20代、30代を過ごす。自衛隊や警察よりも“外部との交流が極端に少ない”職種であることも相まって、価値観の広がりも限定されている。失敗しても咎められず、改善を促す文化もない。あえて言えば、火事がなければ何事もなく一日が終わる世界なので、「何も起きないこと=正解」という構造が、思考放棄を温存する温床となっている。

 これはもう、「考える」という訓練を一度も経ないまま大人になった人間が、安定した身分のまま“居心地よく”生きられる職場構造そのものだ。考えないことが常態化しているだけでなく、「考える人」や「変えようとする人」が異物扱いされてしまう環境が、この構造をさらに固定化させている。


スポンサーリンク

市民が気づくべき“構造の怠慢”

 こうした問題の本質に、市民がどれほど気づいているだろうか。

 消防に対して「命を救ってくれる崇高な職業」というイメージを持つ市民は多い。それ自体は否定すべきではないが、あまりにその幻想に依存しすぎると、構造の怠慢に無自覚なまま、税金が投入され続ける現実に気づけなくなる。

 救急搬送の遅れ、火災対応の不備、不祥事の多発。こういった一つひとつの事案が、「個人のミス」や「偶然の重なり」ではなく、「考える習慣のない組織」が引き起こしているとしたら、私たちはその根本を疑うべきだ。

 考えないことを放置し続ける限り、いつか取り返しのつかない事態が起こる。そしてそのとき、最も損害を受けるのは、市民一人ひとりである。


スポンサーリンク

なぜ“考えない消防士”が増えているのか──総括として

 名古屋市消防局で起きた仮眠中の出動遅れ事件は、まさにこの構造的な問題の象徴である。仮眠体制に入る前のチェックを怠り、指令が届かない設定のまま、救急車が6分遅れて出動した結果、市民の命はすでに失われていた。

この事件は、“考えなかった”ことによって、取り返しのつかない損失を招いた例である。

 だがそれは一個人の怠慢ではない。「考えることの価値」を認識できないまま、職業人生を積み上げてきた組織文化全体の問題である。もしその文化の中で、「あの職員はいつも細かく考えすぎる」「面倒な奴だ」と評価されていたとすれば、すでに手遅れなのかもしれない。

 いま一度、市民の視点から“考える職員”がどう扱われているか、そして“考えない組織”がどれほど危ういかを直視する必要がある。

モバイルバージョンを終了