市民から苦情が来るので、理解を求める広報をしている
実際には存在しない“市民の苦情”という架空の敵を想定
“文句を言ってくる心ない市民がいる”という印象を市民自身に刷り込むこと
明確な“印象操作”
1|序章|なぜ今さら「救急隊も休憩します」と言い出すのか
「救急車がコンビニや病院の駐車場に止まっていることがありますが、これは隊員が休憩や食事をとっているためであり、業務の一環です。ご理解をお願いします。」
──近年、多くの消防本部がこうした文言をSNSやポスター、公式サイトで発信するようになった。口調は丁寧で、目的も「市民の誤解を解くため」とされている。
一見すると、「救急隊だって人間なんだから休憩も必要ですよね」という当たり前の話を周知しているようにも見える。
だが、少し立ち止まって考えてみてほしい。
この広報の背景には、一体どんな“問題”があるというのだろうか。
「市民から苦情が来るので、理解を求める広報をしている」と思い込んでいる人も多いかもしれない。
しかし、事実はまったく違う。
この広報の背後にあるのは、実際には存在しない“市民の苦情”という架空の敵を想定し、それに立ち向かう“正義の消防”という構図を自ら作り出し、それを公然と演出しているという構造的な問題である。
この文章の目的は、実は「救急隊の休憩を理解してもらう」ことではない。
そうではなく、“文句を言ってくる心ない市民がいる”という印象を市民自身に刷り込むことであり、
そのうえで「我々消防は、そんな声にも耐えながら頑張っています」とアピールする自己演出の道具なのだ。
2|“苦情が多い”という前提は本当か
そもそも、こうした広報の前提には「市民から苦情が多く寄せられている」という暗黙のストーリーがある。
だが、実際にそうなのだろうか?
ある消防本部関係者に話を聞くと、こんな答えが返ってきた。
「苦情?あんまりないですね。
救急車がうるさいとか、車の前に止まって困ったとかいう話が年に何件か。
救急隊がコンビニにいたこと自体が問題になったケースは、私の知る限りありません。」
事実、ほとんどの消防本部では「救急隊がコンビニで休憩していた」こと自体を咎めるような苦情は皆無に近い。
むしろ、通報者や施設関係者からの問い合わせとしては、
- 「何かあったんですか?」
- 「心配される方がいるので、ちょっと目立たないところに車を停めてもらえると助かります」
といった“要望”や“確認”が圧倒的多数を占めている。
しかも、それすらも苦情ではない。
いわば丁寧な連絡であり、敵意のある非難などとは全く性質が異なる。
つまり、「休憩していることを非難する市民」が存在しているかのように装った広報は、実際には前提となる事実が存在しない。
それにもかかわらず、そうした広報を行うことで、「市民の中には苦情を言うような人がいるらしい」と他の市民に誤解させているのである。
これは広報としての構成ミスなどではなく、明確な“印象操作”と呼ぶべき行為だ。
3|広報という名の“自己正義の演出”
「我々は、苦情にもめげず頑張っています」
「市民の冷たい目にも耐えて任務を果たしています」
「誤解されているかもしれませんが、これは正当な行為なんです」
──このような構文は、広報や公的な声明の中に頻繁に織り込まれている。
特に“広報という名の演出”が行われる場面では、「無理解な外部」と「誠実な内部」という構図が好まれる傾向にある。
今回のような「救急隊の休憩」に関する広報も、まさにその典型だ。
冷静に考えてみよう。
本当に「正当な行為」であるのなら、それをわざわざ広報する必要などないはずである。
そもそも、救急隊がコンビニで飲料を買うことや、病院で待機中に一息つくことは、勤務中の一部としてすでに制度上も認められている行動である。
正当性があることを正当化する必要があるとしたら、それは“正当性を疑われている”という前提があるからだ。
だが、実際にはそのような疑いをかけられる場面はほぼない。
苦情もなく、問題も起きていない。
つまり、ここに登場する「非難してくる市民」とは、**実在しない“想像上の敵”**なのだ。
そうして、市民を無自覚に“敵役”に据えることによって、「それでも我々は正義の側だ」というメッセージを演出する。
これこそが、現代の自治体広報が陥りがちな構造的な問題であり、消防のように「正義」の看板を掲げやすい職種では、特に顕著に表れる傾向にある。
4|本当に守るべき信頼とは何か
広報というのは本来、市民との信頼関係を深めるための手段であるべきだ。
誤解を解くこと、正しい情報を伝えること、共感を得ること──これらはすべて、信頼を醸成する目的のためにある。
しかし、「苦情はないが、あたかも苦情があるかのように誤解させる」広報は、その目的とは正反対のベクトルに向かっている。
なぜなら、それは信頼ではなく疑念と萎縮を生む構造だからだ。
この広報を見た市民の中には、こう思う人も出てくるだろう。
「ああ、救急車に苦情を言う人がいるんだ。私は何も思ってなかったけど、他の人が文句言ってるなら、配慮しないとダメなのかな?」
その結果、救急車を見かけたときに心の中で構えてしまったり、何か言わないといけないような雰囲気にすらなってしまう。
広報は「心ある市民」に沈黙と気遣いを強制し、「見えない敵」との戦いを継続させるための舞台装置に変質してしまうのだ。
これは非常に危うい構図である。
市民が誰に対しても文句を言っていないにもかかわらず、
消防が「文句を言われて困っている」という顔をし続けることで、見えない断絶が生まれる。
「気を遣わせる市民」と「耐えている正義の組織」──
そんな対立を、消防自身が演出してどうするのか。
それは本当に、信頼をつくるための行動なのだろうか。
5|結論|市民との対立構図を勝手に作るな
消防は、正義であろうとする。
それ自体は否定されるべきではない。
しかし、正義を演出するために“想像上の悪”を必要とし始めたとき、その正義は傲慢な独善に変わる。
「市民の一部が苦情を言っている」という“ふり”をし、
実際には存在しない敵を想定し、
あたかも困っているような立場を演じる。
そうすることで、“苦情にも耐えて頑張っている消防”という物語を作り上げていく。
だが、市民からすればそんな物語には参加していない。
誰も敵ではないし、そもそも文句も言っていない。
このような広報の構造は、結果として市民を無自覚に加害者のポジションに押し込める。
「理解しない市民」「文句を言う市民」という虚構の存在を作り出すことで、
本来何の問題もなかった“日常の救急活動”に、変な緊張感と不信感が生まれてしまう。
本当に必要なのは、「市民にわかってもらおうとする姿勢」ではない。
まずは、「市民に敵意などない」という現実を正確に認識することである。
その上で、「わざわざ説明しなくてもよいことは説明しない」──
それこそが、成熟した広報のあり方であり、
市民との間に無用な境界線を引かない誠実な姿勢なのではないか。
消防が“苦情と戦う正義”を演じる必要はない。
市民は最初から、その戦いに参加などしていないのだから。