1. 救急車が支柱に衝突──「搬送前」の単独事故
2025年6月、長野県辰野町において、救急走行中の救急車が道路脇の支柱に衝突する単独事故が発生した。報道によれば、救急車は搬送要請を受けて現場に向かう途中だったが、患者の収容前に事故を起こしたため、同乗の救急隊員にも負傷はなく、運転していた隊員もけがはなかったという。
このニュースに対し、SNSでは「現場へ急いでいたのだろう」「車内では緊迫した処置もあるだろうに、運転との両立は大変だ」という擁護の声も一部で見られた。
しかし──
それは事実に基づいた理解だろうか?
2. 救急車内=戦場という勘違い
多くの人が、救急車という空間を「血まみれ」「絶叫」「緊急処置の連続」というような、テレビドラマのような世界と想像している。しかし、現実はかなり違う。
SNSでは、患者が搬送中の救急車内でスマホを取り出し、自撮りや実況を投稿する様子も日常的に見られるようになってきた。これを見て「それは軽傷だったから」と思う人もいるかもしれない。
だが、それは誤解だ。
消防庁の統計によれば、救急搬送される患者の約5割は軽傷、約4割が中等症であり、重症と判定されるのはわずか1割未満。しかも「重症」であっても、緊急処置が必要な例は多くない。
例えば「骨折」。これが重症に分類されることがあるが、実際には固定を済ませてしまえば、あとは何もすることがない。脈拍と血圧、呼吸を定期的にチェックしつつ、患者と雑談をする程度の時間が過ぎていく。
3. だからこそ、「何してたのか」は問われる
今回の事故が「患者搬送前」であったという点で、処置との両立といった問題は発生していない。にもかかわらず、支柱へ接触するという単独事故が起きた。
これは、速度・集中力・走行計画など、安全運転への配慮に欠けていた可能性を示唆する。そしてここで見逃してはならないのが、「救急車内はいつでも大変」「処置中は仕方がない」という根拠なき擁護コメントが、こうした過失をも包み隠してしまう構造だ。
救急車内で「くだらない話」や「雑談」「緊張感の欠如」が行われていた可能性があったとしても、それを真剣に検証する声は極めて少ない。逆に、「命を守るための任務なんだから、あまり責めるなよ」という風潮が先に立つ。
だが、果たしてそれでいいのか。
4. 救急車内の「9割」は処置も会話もなし
消防庁が毎年発表している救急統計によれば、救急車で搬送される人のうち、
- 約50%が軽症(通院の必要なし、または一時的な対応で済む)
- 約40%が中等症(入院の可能性はあるが、生命に直結しない)
- 重症は10%未満(命に関わる、もしくは継続的な治療を要する)
という内訳で構成されています。
しかもこの“重症”の中には、先述のような処置不要な骨折や、症状安定後の搬送も含まれているため、実際に車内で緊急対応を要するケースは、全体のわずか5%程度にすぎません。
つまり、9割以上のケースでは、救急車内はむしろ“やることが少ない空間なのです。
もちろん、観察や問診、必要な準備は常に怠ってはならないでしょう。しかし、現実として、搬送中に「雑談が生まれる」「日常会話が交わされる」ことはよくあります。
「お仕事中だったんですか?」
「骨折、初めてですか?」
「どんなお仕事されてるんですか?」
──こうしたやりとりを通じて、救急隊員と患者が“いい雰囲気”で病院へ向かう姿は、緊迫とは程遠いと言えるでしょう。
5. 「大変な仕事」イメージが隠す現実
ここで問題になるのは、こうした実情を無視して、救急業務を「常に極限」「命がけ」「神聖」と位置づけるような空気です。
SNSやコメント欄、テレビなどで散見される「救急車内は壮絶な現場」「そんな中で安全運転もこなすなんてすごい」という意見は、その多くが現実の5%しか見ていない“感情論”にすぎません。
実態を知る者からすれば、それはむしろ「都合の良い誤解」です。
- 本来なら追及されるべき運転ミスも
- 点検を怠った医療機材の不備も
- 勤務中の居眠りやスマホ操作も
「でも救急隊って命を救ってるんでしょ」というイメージの一言で、曖昧にされる。
この“免責バリア”が、組織の自浄能力を失わせていくのです。
6. 救急車事故と「美談中毒」の構図
今回の長野・辰野町の事故に関しても、「ケガ人がいなかったから良かった」「忙しいんだし仕方ない」という反応が一部に見られました。
しかし、これは非常に危険な兆候です。
患者を搬送する前の単独事故。これに対し「忙しい中で頑張ってるんだから…」という擁護が飛び交う時点で、すでに事実の軽視と原因究明の放棄が始まっているのです。
この構図は、消防のあらゆる現場に波及しています。
- 書類の改ざん
- パワハラのもみ消し
- 処分の骨抜き
- 内部通報者への報復
これらすべてが、「でも命を守ってるんだから」という“美談中毒”の空気によって正当化され、風化していく。
だからこそ、こうした「現場の実態」や「勤務実態」について、正確な理解と冷静な評価が必要なのです。
7. 緊張感のない車内が事故を招くこともある
今回の辰野町の事故では、患者を収容する前だったため、車内の処置が直接の要因にはなっていない。しかし、仮に搬送中だったとしても、実際の処置で手が離せなかったわけではない可能性が高い。
救急車内で“やることが少ない”というのは前述の通りであり、多くの搬送事案では隊員も患者も落ち着いて座っている。つまり、車内が「修羅場」のようになっている状態は非常にまれなのだ。
にもかかわらず、「処置中で運転に集中できなかったかもしれない」「医療行為と並行だから大変だったはず」といった推測で“運転ミスの正当化”が行われることがある。これはまさに、虚構による責任逃れである。
車内での雑談、無意味な会話、緊張感の欠如。
「15分くらい遅れても何もない」「急ぐ必要なんてない」といった内部文化が、事故の芽を育てている。
実際、救急車が信号無視で交差点に突っ込んだり、ブレーキをかけ忘れて壁に接触した事例は、全国で数多く報告されている。それらの多くが、“緊急”とは名ばかりのルーティンの中で発生しているのだ。
8. 神格化された存在には誰も注意できない
「救急隊員は命を預かるから」「過酷な現場だから」「ミスがあっても仕方ない」──こうしたイメージがある限り、誰も本気で「お前、ちゃんと確認したのか?」「それ、必要な出動だったのか?」と問うことができない。
この聖域化”こそが最大の病巣である。
彼ら自身が、自分たちを特別な存在として扱い、外部の声を「現場を知らない者のたわごと」と切り捨てる空気。
実際には、安全確認や出動基準の見直し、搬送優先度の評価など、現場でやるべきことはたくさんある。
しかし、それを“外部から問うこと”が許されない。
メディアも「消防を敵に回すのは得策でない」と判断して、批判的な記事を書くことは稀だ。行政監査も“予算と人間関係”の壁で及び腰。
こうして、誰も怒らず、誰も問わず、誰も正さない組織が完成する。
9. 事故が起きても誰も責任を取らない組織
今回の事故で最も懸念すべきは、「搬送前だったから」「けが人はいなかったから」で済まされてしまうことだ。
これが仮に搬送後だったとしても、重症者が同乗していたとしても、果たして本当に対応は変わっただろうか?
残念ながら、多くの消防本部においては、責任の所在を曖昧にする文化が制度として定着している。
事故が起きた直後は内部で「検証を行った」と報告されても、処分は形式的、再発防止策は抽象的。「とりあえず1年間同じことが起きなければ、無かったこと」となる。
こうして、救急車が事故を起こしても、誰も責任を取りたがらず、組織として反省する“ポーズ”だけを繰り返す。
10. 最後に──救急車の“神話”を壊せ
筆者は、救急隊員を貶めたいのではない。
むしろ、本当に命を救う場面で、その力を最大限に発揮してもらうために、「不要な神格化」や「誤った擁護」をやめるべきだと強く主張したい。
救急車の中は、大半の時間が静かで、やることが少ない。それは事実である。
だからこそ、事故が起きたときには「なぜ起きたのか」を淡々と検証すべきなのだ。
「現場は大変だから」という思考停止が、何よりも市民の安全を損ねている。
私たちは、消防という組織の中にある「特権意識」と「聖域化」に対し、もっと鋭く、もっと具体的に、監視の目を向けなければならない。
そうでなければ、次の事故も、また“美談”に包まれて消えていくことになるだろう。