はじめに:耳を塞ぐ風潮の正体
近年、SNSやビジネス書の中で頻繁に目にするようになった言葉がある。
「自分のことを否定する人の言葉に耳を貸す必要はない。時間の無駄だ。」
一見すると、前向きな自己肯定の言葉に聞こえるこの言葉は、確かに一部の場面では有効かもしれない。理不尽な誹謗中傷や、嫉妬に基づいた非難に対してまで真剣に受け止めていては、心が持たないこともある。
だが、この言葉が都合よく「免罪符」として用いられるとき、極めて危険な転化が起きる。とりわけその悪影響が濃厚に現れているのが、筆者が深く関わってきた「消防組織」という閉鎖空間だ。
否定を拒絶する集団と化した消防職員たち
筆者は、長年にわたり消防行政に関わってきた経験を持つが、この世界ではある時期から明確な変化を感じ取るようになった。
──「何を言っても通じない」
──「間違いを指摘すると、相手が離れていく」
──「事実すら“攻撃”として受け止めるようになった」
実際、筆者がこれまでに何度も同僚・上司・部下に対して行った「否定」は、内容的には極めてまっとうなものであった。
- 「お前がやっている書類の改ざんは違法行為だから今すぐやめろ」
- 「お前がやったパワハラのもみ消しはどういう意味でやったの? 本当に正しいと思ってるのか?」
- 「いよいよ俺に書類を回さず、勝手に書類を作ったみたいだが・・。結果だけ回ってきたんだけど、内容も参考条文も記載方法も全て間違っている。これは“ケツ拭け”ってことか?」
- 「お前らのもみ消しで、ついに自殺者まで出たけど、どう責任を取るつもりなんだ?まさか公務外にするつもりじゃないよね?あ、するのね。」
これらの指摘は、感情論ではなく、事実と制度に基づいた問いかけだった。しかし、そのいずれにも、返ってきたのは「完全な無視」だった。彼らにとって、自分を否定する声は「聞かなくていいノイズ」だったのだ。
まさに、近年よく目にするあの言葉どおり、
「否定する人の声など、聞く必要はない」
この風潮が、現場の職員の意識レベルまで深く染み込んでいる。
否定を聞かないことで進行する制度腐敗
「否定を聞かない」という姿勢が個人にとどまらず、組織全体に広がったとき、そこに待っているのは制度の腐敗と無責任の蔓延だ。
たとえば、書類改ざんが常態化していたある消防本部では、内部でその事実を告発した職員がいた。しかし、返ってきたのは上司の無視と、同僚たちの白い目だった。「面倒な奴」「空気を読まない奴」として扱われたその職員は、最終的に孤立し、退職を余儀なくされた。
改ざんそのものを止めようとするどころか、「指摘した人間が悪い」という構図が当たり前になっていた。
筆者自身も、似たような局面を何度も経験した。
パワハラのもみ消しに関して追及したときには、「それは君の主観だ」「問題にすること自体が問題だ」といった言葉で封じられ、ついには自分を完全に除外した懲戒書類が勝手に作成されるという事態にまで至った。そして決定事項として実務だけ降りてくる。意思決定さえされてしまえば、それを拒否することはできません。意思決定の前に、そのライン上に真っ当な人間が一人でもいれば、状況が改善されるはずですが、ラインから外され、異常な奴だけがそこに残るのだ。
中身を見れば、参考条文も処分理由も滅茶苦茶。しかも、それを誰も問題にしない。なぜか? 「否定してくる人間の言葉には耳を貸すな」という心理が、ここでも無意識に働いていたからだ。いや、それすら理解できない人しか消防職員として生きていけないのだ。
自殺すら“否定”して封じ込める恐怖
最も深刻だったのは、自殺者が出たときだ。
当然、何が起きたのか、どう対応すべきか、組織として真剣に向き合うべき状況だった。だが、返ってきたのは沈黙。そして“ごまかし”だった。
・公表は最低限にとどめる
・遺族や現場への説明は曖昧にする
・責任者は沈黙し、部下だけが火消しに回る
誰かが「この対応はおかしい」と言えば、「今はそういう時じゃない」「あの人にも事情があった」といった言葉で封じる。
「否定を聞かない」という姿勢は、もはや一種の免疫機構のように機能していた。否定を受け入れることで組織の問題が可視化されてしまうことを、彼らは無意識に恐れていたのだろう。
しかし、その“耳を塞ぐ”姿勢は、確実に誰かの命を奪っていた。
そもそもその方法を選んではいけない。その方法を選んでしまえば公務災害として状況を覆すことは99.9%不可能だから。やむを得ない場合でも場所を考えなければならない。
耳をふさぐ文化が生んだ組織の末路
否定を拒む──それは一人の職員の自己防衛ではなく、やがて組織全体を支配する「空気」へと変質する。
否定的な意見は排除され、是正の声は煙たがられ、誤りを正す人間が“変人扱い”される。こうした現象が消防組織の中で何年も続いている。
そしてその結果、何が起きたか。
- 書類改ざんは見逃され、処分も下されず
- パワハラはなかったことにされ
- 自殺者が出ても、責任の所在はうやむや
- 「それを問題だ」と言った人間だけが孤立して去っていく
つまり、正しい者が消え、間違った者が生き残る組織構造が完成してしまったのだ。
言い換えれば、「否定を聞かない」という態度は、結果として“組織の自己破壊”をもたらす毒でもある。
それでも変わらない理由──責任の所在なき「公務員」
では、なぜこんな状態が続くのか?
それは、消防という組織が「公務員制度」という分厚い安全網の中に守られており、多少の不正や問題があっても、罰せられずに済んでしまうからである。
- 内部告発があっても、調査は形だけ
- 懲戒処分は身内でこっそり処理
- メディアに出るのは“目立ったとき”だけ
- 多くの自治体では、監査も機能していない
否定されるようなことをしても、「謝らなければいけない」「改善しなければいけない」と本気で思っている職員はほとんどいない。
否定的な声には「どうせ騒ぐだけ」と冷笑し、自分たちの小さな世界の“常識”だけで完結してしまう。
こうした構造に守られているからこそ、「否定する人の話は聞かなくていい」と平然と言えるのだ。
最後に:否定されることの意味を、今一度考えよ
筆者がここで主張したいのは、「誰かを否定しろ」ということではない。
そうではなく、
「否定の声にこそ、向き合わなければならないときがある」
という当たり前のことを、もう一度取り戻すべきだということだ。
違法行為を止めてほしい、パワハラをやめてほしい、自殺を防ぎたかった。
その声を「否定」と切り捨てて、耳をふさいできた結果が今の消防組織である。
「否定する人の話など聞くな」という言葉が、もしあなたの中に刷り込まれているなら、どうか一度立ち止まって考えてほしい。
それは自分の尊厳を守る言葉なのか、それとも他者の苦しみを無視する言い訳なのか。
この問いを避け続ける限り、消防組織はこれからも自分たちの手で、自分たちを壊し続けることになるだろう。
そういってしまえば聞こえはいいが、現代の消防職員は総じてそういった人しかいないのだ。