「あいつ使えないよな」:安房消防のパワハラ事案に見る組織の責任

消防不祥事
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ニュースの概要

 千葉県の安房広域市町村圏事務組合消防本部において、40代の男性副主査が部下に対して「あいつ使えないよな」などの人格を否定する発言を繰り返し、減給の懲戒処分を受けたことが報じられました。この副主査は、部下の勤務態度や能力に関して否定的な言動を繰り返し、職場の人間関係に悪影響を及ぼしたとされています。本人は「コミュニケーションの延長で悪意はなかった」と述べていますが、組織としてはパワーハラスメントと判断し、処分に至ったとのことです。

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パワハラは個人の問題ではない

 このような事案が報じられると、インターネット上では加害者個人を非難する声が多数見受けられます。しかし、パワーハラスメントは個人の問題にとどまらず、組織全体の問題として捉えるべきです。

 報道によれば、加害者は40代で副主査という役職に就いており、仮に20年間勤務していたとすれば、その間に組織から一定の評価を受けてきたことになります。

 つまり、組織は彼の言動や態度を見てきたはずであり、今回のような問題が初めて発生したとは考えにくいのです。

 もし、過去にも同様の言動があったにもかかわらず、組織が適切な対応を取らなかったとすれば、それは明らかに組織の責任です。また、仮に今回が初めての事案であったとしても、部下との相性や職場環境の問題が背景にある可能性があり、組織はそれを未然に防ぐ責任があったと言えるでしょう。

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組織が評価してきた人間の「現在地」

 今回の加害者とされる副主査は、明確に「組織から評価されてきた人物」であることを見逃してはなりません。副主査という役職は、平職員からの昇任を経て与えられるものであり、その間に複数回の人事考課を経ているはずです。つまり、消防本部としてはこの人物の働きぶり、協調性、職務遂行能力などを肯定し続けてきたということです。

そのような人間が、業務中に「使えない」とまで言い切るような発言をするに至った。その事実を、あたかも「突然豹変した問題職員の個人的過ち」として処理してしまうことに、大きな疑問があります。

問題は「個人の資質」ではなく「組織がそれを放置してきた過程」にあるのです。

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もしこれが“初めて”なら、それもまた組織の責任

 仮に、20年間何の問題もなく勤務していた職員が、今回の被害者との関わりで初めて人格を否定するような発言に及んだのだとしたら――それもまた、組織の失策です。

 職員同士の相性や人間関係は、業務の中でもっともデリケートでありながら見過ごされがちな部分です。

 しかし、そうした環境面に配慮することも「人員配置を行う側の責任」の一部であるべきです。組織には、部下を持つ側にも、支えられる側にも、それぞれの立場に適した環境を整える義務があります。

 パワハラ発生の前兆は、多くの場合、現場の空気や日常の小さな言動の中に現れます。職員間の会話や、面談時の態度、報告内容からそうした兆候を察知し、未然に人事的措置を取ることが可能だったはずです。

 それを見抜けず、「放置した結果」今の事態があるのであれば、これは完全に管理側の不作為です。

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「発狂するまで放置された人間」は本当に加害者なのか?

 これは極端な表現ですが、20年間何の問題もなかった人間が、ある日を境に人格否定発言をするようになるというのは、冷静に考えて異常です。組織は本当に、この人物を支えてきたのか? それとも、ただ「問題がなかったように扱っていただけ」ではないのか?

 逆に言えば、今回の被害者とされる人物も、組織による適切なケアを受けていたのか、また人間関係や職場配置が適切だったのか――これらを一切省みることなく、加害者の側だけに処分を下し、幕引きとするのは、組織としての自己保身の表れに過ぎません。

 パワハラ問題の多くは、加害者・被害者の二項対立ではなく、「対立が起こるまで放置された両者」こそが、真の意味での“被害者”であることが少なくありません。

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コメント欄に溢れる“義憤”の危うさ

 このニュースに対してネット上には「最低だ」「社会人失格」「懲戒免職にすべき」といったコメントがあふれましたが、そのほとんどは「単純な加害者バッシング」でしかありません。

 加害者の人格を一刀両断にして溜飲を下げるその反応は、パワハラを真正面から捉えるにはあまりにも稚拙です。

 むしろ、こうした反応こそが、パワハラの構造的問題を見えなくしているのではないでしょうか。

 職場の中で「上司」や「年長者」が不当に攻撃されている場面を、逆にネット上で“制裁”として正当化する流れ――それは社会的に極めて危険な兆候です。

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真の責任は誰にあるのか:責任の所在のすり替え

 こうした問題が報道されるたびに思うのは、「責任を個人に押し付けて処分して終わる」ことの安易さです。今回の件が繰り返されていたのであれば、組織はなぜもっと早く対処しなかったのか。初めてだったのであれば、なぜ異変を察知できなかったのか。

 いずれにしても、「副主査が勝手にやったこと」という認識のまま幕引きを図るのであれば、それはまさに責任の所在のすり替えであり、組織の本質的な改善には何らつながりません。