正義を語る資格はあるのか──「うちの消防も同じです」と言う者たちへの問い

消防ニュース
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書き込み者もまた、組織を構成する「加害者」であるという事実

 消防の不祥事に関するニュースが報じられると、ヤフーニュースのコメント欄には決まって現れる声がある。

 「うちの消防も似たようなもんです」「パワハラ上司、セクハラ上司だらけ」「改善しようとしない管理職ばかりです」「被害者は声を上げられません」──

 一見すると内情を暴露する勇気ある内部告発のように思えるが、よくよく見ると、そのほとんどが「他人事」である。あたかも自分はその腐敗した組織とは無関係であるかのように語り、自分は被害者の側に寄り添っているとでも言わんばかりの文面が並ぶ。

 だが冷静に考えてほしい。あなたはその「似たような消防本部」の一員なのではないのか。組織の中にいて、それを知っているのに、黙ってそれを容認している──それがどうして「被害者側」なのか。

 声を上げない者、見て見ぬふりをする者、無力を装う者もまた、組織の加害性を構成する一部に他ならない。


ハラスメントの構造──「被害者以外はすべて加害者」であるという現実

 ハラスメントとは、加害者と被害者だけの関係ではない。その場に居合わせながら気付かなかった者、気付きながら黙っていた者、噂を知りながら行動を起こさなかった者──全てが構造の一端を担っている。

 特に消防のような閉鎖性の強い職場においては、「見て見ぬふり」の罪は極めて重い。

 言い換えれば、ハラスメントの現場において「被害者以外は全員加害者である」というのが原則である。
 実際に手を下した者が一番悪いことは間違いない。しかし、それは僅差にすぎない。組織ぐるみで黙認し続けてきた「共犯関係」に目を向けなければ、何も変わらない。

 消防職員は、他人の命を預かるという仕事の中で、日常的に強い上下関係に晒されている。その現場でハラスメントが起きたとき、誰かが「それはおかしい」と言わなければ、構造は温存される。

 そして今、その構造に何の抵抗も示さないまま、「うちの消防も同じです」と書き込んでいる者たちは、まさにその加害構造の一部である


「正義感の塊」などという幻想──消防職員に宿る本当の動機とは

 消防職員は、しばしば「正義感が強い」「使命感を持って働いている」「困っている人を助けるヒーロー」といったイメージで語られる。メディアの特集や広報映像でも、「誇り高き職業」として描かれることが多い。

だが、果たしてそれは真実なのだろうか。

 現実には、目の前で起きているパワハラやセクハラに目をつむり、見て見ぬふりをしている者たちが大勢いる。そして、それを正義に反することとは思っていない。いや、むしろ「自分は何もしていない」ということを盾に、自らの無関係を正当化している

 「火を消すのは評価されるから」「救急で活躍すれば上司に認められるから」「市民の前ではいい顔ができるから」──そうやって、自分の利得と評価を起点に行動している者がほとんどである。

 そこに「正義感」などという言葉を持ち出すのは、あまりにも都合が良すぎる。

 さらに言えば、彼らは「正義」を振りかざすのではなく、「評価されたい」「上司に気に入られたい」「給料を上げたい」といった欲望のもとに行動している。

 だからこそ、不祥事が起きても沈黙し、何もなかったかのように立ち振る舞う。それが、「正義のヒーロー」の正体である。


消防士の「正義」とは、自分の利益に都合の良いかたちで現れるだけ

 実は、消防士の言動には一貫した法則がある。それは「自分にとって都合がいいかどうかで、態度を変える」ということだ。

 たとえば、1年に1回あるかないかの過酷な現場を取り上げて「いつも大変なんです」と主張する。しかし、平時のほとんどが待機時間であることは公然の秘密だ。

 あるいは「過酷だから手当を増やせ」「忙しいから給料を上げろ」と訴えるが、同時に「世間は消防のことを分かってくれない」と被害者ぶる。

 そして、自分の消防本部でパワハラやセクハラが起きていると知りながら、具体的な行動は起こさず、ネットの片隅で「うちも似たようなもんです」とつぶやくだけ。

 ここに、どんな「正義感」があるのだろうか。ない。あるのは、自分だけが傷つきたくないという保身であり、何かあったときには「最初から分かってましたよ」と後出しで言いたいだけの姿勢だ。


「見ていたのに何もしなかったあなた」は何者なのか

 たとえ実際にハラスメントを行っていなくても、それを知っていて何もしなかったなら、あなたもまた被害者を苦しめた一人だ。

 「自分は違う」「自分はただの傍観者だ」と主張する人間が一番危うい。なぜなら、その人間こそが最も冷静に、無責任に、組織の不正を容認してきたからだ。

 「見ていたのに何もしなかったあなた」は、加害の構造から免れることはできない社会であるべきだ。黙っていたことが被害を助長し、正当化し、延命させたのだから。

 そして今、その事実から目を背けたまま、「似たようなことがうちにもあります」とコメントする行為は、被害者に対して再び冷たい視線を向ける「二次加害」にすらなり得る。


「語る」ことより「向き合う」ことを

 今、消防組織に本当に必要なのは、「うちの本部も似たようなものです」と遠くから語ることではない。ましてや、ネット上で他人の不祥事に便乗し、「自分も苦しんでます」と告白することでもない。

必要なのは、「自分の職場で何が起きているか」を直視し、それにどう対処するのかを自らに問うことだ。

・なぜ自分は沈黙したのか
・なぜ自分は見て見ぬふりをしたのか
・なぜ自分は「加害者ではない」と思い込んでいるのか

 こうした問いに向き合うことが、ようやく「消防」という職場に人間性を取り戻す一歩になる。そして、その答えが見えない限り、どれだけ正義を語ろうと、あなたは何もしていないのと同じである。


正義感の“演出”をやめよう

 消防士は「正義感がある」と言われる。その言葉が称賛として使われるのは、日々の活動が市民にとって見えやすく、そして美化されやすいからだ。

 しかし、パワハラやセクハラのように、内側で起きている不条理に対しては、驚くほど冷淡で、無関心で、無責任だ。それが現実であり、真実である。

 真の正義感とは、他人の評価を気にせず、身近な不正に立ち向かう勇気のことである。目の前の同僚が苦しんでいるときに、行動を起こせるか。沈黙せずに「それはおかしい」と言えるか。それができない人間に、「うちも同じです」と嘆く資格はない。

 ぜひ覚えておいてほしい。身近にいる活動的な消防士を見つけたら、「あぁ、きっとこの人の職場でもパワハラやセクハラが横行してるんだろうなぁ、そして病んでないってことは加害者側なんだなぁ」って思ったとしても、90%以上正解だということを。