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「誠実さを演出する装置としての“下っ端不祥事”」──消防本部はなぜ喜ぶのか

甲賀市

都合のいい「謝罪パフォーマンスの場」
本部がほとんど傷つかない安全なアピール機会
消防本部にとって「ウハウハ」な状況

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はじめに|「また消防士の不祥事か?」をどう見るか

19歳の消防士が、窃盗事件を起こし懲戒免職となった──。

全国紙も地域紙もこの話題を一斉に取り上げ、「遊ぶ金が欲しかった」との本人供述を大きく見出しにした。
記者会見では本部長や管理職が深々と頭を下げ、「市民の信頼を裏切った」「再発防止に努める」など、毎度おなじみのコメントが並んだ。

だが、これを“消防組織の問題”として捉えるのは、実のところ大きな間違いだ。
なぜなら、こうした“採用間もない若手の単独不祥事”ほど、消防本部にとって都合のいい「謝罪パフォーマンスの場」となるからである。


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第1章:「若手の単独不祥事」は組織にとって“無傷のアピールチャンス”

消防組織の不祥事には、大きく分けて二つのタイプがある。

1つ目は、組織ぐるみの隠蔽や長年にわたるパワハラなど“構造的な腐敗”に起因するもの。
2つ目は、今回のような採用間もない職員が単独で起こした事件である。

後者の場合、消防本部にとっては、
「本人の人格の問題」「採用時の見抜き切れなかった点」「研修不足」などの“限定的な要因”に帰結させやすい。

それゆえ、組織ぐるみの不正のように波及効果がない。
むしろ本部は「我々の管理体制が不十分でした」と謝罪しつつ、「速やかに処分しました」と“毅然たる対応”を示すことができる。

これは一見、市民の信頼回復のために見えるが、裏を返せば本部がほとんど傷つかない安全なアピール機会なのだ。


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第2章:「誠実な組織」アピール装置としての不祥事会見

では、なぜこの手の不祥事で本部が“誠実さ”を演出できるのか?

理由は単純だ。
本当に組織の中枢で生じている腐敗や隠蔽の問題──例えばパワハラ隠蔽、書類改ざん、上層部の責任逃れ──は、本部にとって“絶対に謝罪したくない種類の不祥事”である。

一方、若手職員の窃盗や飲酒運転など、個人の資質に依拠した単独不祥事は、
「監督責任」を形だけ問われるだけで済む。

しかも、

……これらをセットで“パッケージ”として示せば、
メディアも世間も「反省している」「誠実な組織」とみなす傾向が強い。

ここで重要なのは、本部の誠実さが「演出」として機能している点だ。

“誠実に謝罪する本部”こそが、最大の信頼回復装置──
本来、不祥事が起こるたびに組織の根幹が問われるはずなのに、
“下っ端の個人不祥事”ほど「組織としての誠実な振る舞い」を示せる機会として利用されるのである。

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第3章:「関係性の薄さ」が生む“ウハウハ感”と責任回避の構造

今回のような採用直後の若手職員による単独不祥事──これは消防本部にとって「ウハウハ」な状況である、とあえて表現したい。

なぜなら、組織との関係がまだ希薄な新人の場合、「教育の結果」や「職場風土の影響」など本質的な組織問題に発展しにくい。
本部の謝罪会見も「個人の資質によるもの」「私たちも被害者」という空気のなかで行える。

そして、管理職もベテランも、自分たちの本当の責任は何ひとつ問われない。
下っ端の不祥事は「残念だったが適切に対処した」という“信頼回復のショー”に早変わりし、
一件落着、というわけだ。

この構造がなぜ問題なのか。

第一に、組織の自浄作用が本質的に働かない
本部としては「悪いのは個人、私たちは正義」という構図をつくりあげるだけで済む。
本当に問うべきは、「なぜこのような職員を採用したのか」「そもそも採用の基準はどうなっているのか」「教育や職場の空気はどうだったのか」という構造的な部分であるはずだ。

だが、その問いは“会見”と“懲戒免職”というパッケージのなかで、煙のように消えてしまう。

第二に、組織の危機管理が「謝罪の演出」に回収されることだ。
下っ端のミスには大きく頭を下げるが、
本当に問われるべき“組織ぐるみの隠蔽や不正”には決して言及しない。
表面的な「反省パフォーマンス」で市民の信頼を回復する仕組みが、すっかり定着している。

本部にとってみれば、これ以上おいしい“信頼回復イベント”はない。


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第4章・まとめ:本当の“組織の信頼”とは何か

こうした“下っ端不祥事”における謝罪劇を見ていると、
私たちはつい「誠実な対応をしている」と思い込みそうになる。
だが、それはあくまでも“演出”である。

本当の組織の信頼とは、

でなければならない。

だが現実には、「信頼回復」の言葉が踊るたびに、

……これらが市民の“感情”をなだめるための消火活動として機能してしまっている。

そして、その間にも、組織ぐるみのパワハラ、書類改ざん、隠蔽体質は何も変わらない。

こうした“謝罪イベント”の裏で、何が問われず、何が温存されているのかを記録し続けたい。

市民の信頼は、「誠実そうに見せかけること」ではなく、
「本当に自分たちの中身を問うこと」からしか生まれない──
この基本を忘れた組織が、
下っ端の不祥事で頭を下げるたびに“得をしている”現実がある。

だからこそ、「誠実さの演出」と「本当の誠実さ」を、
私たちはもっと峻別して見ていかなければならない。

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