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道頓堀ビル火災(宗右衛門町ビル火災)の衝撃
2025年8月18日午前9時50分頃、大阪市中央区宗右衛門町で発生したビル火災は、繁華街ミナミを一時騒然とさせました。
5階建てと7階建て、2棟が一部でつながる鉄筋コンクリート造の建物から火が上がり、現場に駆け付けた消防隊員たちは延焼阻止と鎮火にあたりました。
しかし、この火災は単なる都市部の火災事故にとどまりませんでした。
消火活動の最中、浪速消防署所属の消防隊員2名がビル内に取り残され、後に死亡が確認されたのです。
年齢はそれぞれ22歳と55歳。
若手と年長の隊員が、同じ現場で、同じように命を落としたという事実は、多くの人に強い衝撃を与えました。
55歳=ベテランという幻想
一般社会の感覚では、55歳といえば十分に経験を積み、指導的な立場にある「ベテラン」と見なされる年齢です。
企業であれば中間管理職から部長職に就いている人も少なくなく、若手に対して知識と経験を伝える役割を担う立場です。
消防組織においても、本来であればこの年代は前線に立つより、現場の安全を確保し、若い隊員を導く立場に位置づけられるべきでしょう。
しかし、消防の歴史や文化を振り返ると、必ずしも「55歳=経験豊富」とは言えない可能性が浮かび上がります。
もちろん、今回殉職した55歳の隊員がそうであったと断定することはできません。
ただし、この世代の多くが、必ずしも実戦的な経験を十分に積んでこられなかった背景を抱えているのは確かです。
たとえば、阪神淡路大震災当時に20代半ばだった世代は、その現場に立ち会ったものの、まだ駆け出しで「指示に従うだけ」の立場でした。
その後も消防組織では、救助技術大会や形式的な訓練に多くの時間を割く文化が根強く、実火災での判断力を体系的に培う環境は十分ではありませんでした。
そのため、年齢を重ねても「経験が蓄積されたベテラン」ではなく、「年齢だけが上がった現場要員」となっているケースが少なくないのです。
今回の火災で命を落としたのが22歳と55歳だったという事実は、この組織的なゆがみを象徴しているように見えます。
ベテラン不在が招く屋内進入の迷走
今回の火災で最大の疑問は、なぜ隊員が屋内に進入していたのかという点です。
現場の報道によれば、延焼は最終的に阻止され、外部からの放水による消火活動は成果を上げていました。
では、屋内進入は本当に不可欠だったのでしょうか。
消防の大原則として、「逃げ遅れ情報がある場合」にはある程度の危険冒してでも突入する意義があります。
しかし、逃げ遅れの情報が確認できない、あるいは不確定である場合、無理に屋内へ進入する合理性は薄れます。
むしろ屋外からの延焼防止消火に徹し、周囲の被害拡大を防ぐ判断が優先されるべきでしょう。
ところが日本の消防現場では、いまだに「とりあえず突入」「外からも内からも同時に放水」といった昭和型の消火戦術が根強く残っています。
本来であれば、屋内進入を優先する場合には外部からの放水を制限し、延焼リスクをあえて受け入れながら救助に集中するのが筋です。
しかし「屋内進入もする」「外部からも水を入れる」と両方をやれば、内部は高温多湿と煙で充満し、退避ルートは塞がれ、隊員が取り残される危険性が高まります。
この判断の背景にあるのが、ベテラン不在という構造的問題です。
もし本当に経験豊富な現場指揮者がいたなら、
「逃げ遅れ情報がないのだから屋内突入は控えよう」
「外から水をかけることで内部隊の退避が難しくなる」
といった冷静な判断がなされた可能性があります。
しかし、実際にはそうした判断が徹底されず、若手も年長者も同じように危険にさらされてしまった。
この現実は、勇敢さを美徳とする文化が、合理的な安全管理を押しのけていることを浮き彫りにしています。
「勇敢に突入した」という称賛は一見美しく響きます。
しかしその裏側には、「なぜ突入する必要があったのか」という検証を置き去りにする危うさがあります。
今回の2名の死は、まさにその問いを突きつけています。
全国的に広がるベテラン不在現象
大阪市消防局のケースだけを取り上げると、あたかも特異な問題のように見えてしまいます。
しかし実際には、このベテラン不在という状況は全国の消防組織に共通する構造的な問題です。
まず、人材育成の仕組みにおいて、日本の消防はきわめて特徴的です。
人事異動のサイクルが短く、数年ごとに配置換えが行われるため、ある程度経験を積んだとしても、その知見を深める前に別の部署へ異動させられてしまうのです。
火災現場に精通した現場のベテランを組織的に育てる仕組みが欠けており、結果として年齢を重ねても「経験の厚み」が伴わない人材が大量に生まれてしまうのです。
さらに、全国的に見ても「大規模災害を経験した職員」は減少しています。
阪神淡路大震災を直接体験した世代はすでに50代半ば、東日本大震災を経験した世代も今や中堅の域に達していますし、東日本大震災は消火活動は多くありませんでした。
その下の世代には、都市型大火災や大規模震災を直接経験した人材が乏しく、実戦経験の空白が広がっているのが現状です。
その一方で、各地の消防本部は「救助技術大会」や「訓練発表」といった見せるための活動に時間を割き続けています。
もちろん訓練自体は必要ですが、その多くは「大会で評価されるための演技的訓練」であり、実火災での判断力や柔軟性を養うものではありません。
つまり、組織としての経験の蓄積がなおざりにされ、大会の成績や形式的な練度だけが実力とみなされるゆがんだ構造が出来上がっているのです。
結果として、「若手は経験不足だから危険」「年長者は経験豊富だから安全」という一般的な図式が消防組織では成り立たなくなっています。
22歳の若者と55歳のベテランに見える隊員が、同じように火災現場に突入し、同じように危険にさらされる。
これは個人の問題ではなく、全国の消防に共通する育成の歪みが作り出した皮肉な現実なのです。
皮肉な現実 若手と年長者が同じ死を遂げる組織
22歳と55歳。
本来であれば、両者はまったく異なる立場で消防活動に関わるはずでした。
22歳は駆け出しとして現場に飛び込み、経験を積む時期。
55歳は現場の安全を管理し、若手を導く立場。
しかし実際には、二人は同じように火災現場に突入し、同じように命を落としました。
この事実は、単なる「不運な殉職」として片づけてよい問題ではありません。
「消防は危険な仕事だ」「勇敢な消防士が殉職した」といった美談にすり替えてしまうのは、あまりにも安直です。
それでは問題の核心を覆い隠し、次の悲劇を防ぐことはできません。
今回の火災が突きつけているのは、消防という組織の在り方そのものが問われているという厳しい現実です。
なぜ若手と年長者が同列に危険に晒されるのか。
なぜ「屋内進入ありき」の前時代的な消火戦術が続いているのか。
なぜ年齢を重ねても「本物のベテラン」が育たないのか。
それは偶然ではなく、組織文化が作り出した必然です。
「勇敢さ」を美徳とし、「突入こそ消防の使命」という価値観に縛られ続けた結果、合理的な安全管理も、役割の線引きも、経験の蓄積もないまま令和の消防は動いている。
その歪みが、今回の22歳と55歳の同時殉職という皮肉な結末につながったのです。
今回の火災は、ただの火災事故ではなく、全国の消防組織に対する問いかけでもあります。
私たちは「殉職した消防士は勇敢だった」という言葉だけで思考停止してはいけません。
本当に問われているのは、消防という組織そのものが、誰の命をどう守るために存在しているのかという根源的な問題なのです。
どんなに酷い災害現場を目の前にしたとしても、一切の冷静さを失わずに、冷静に判断し、動転してやるべき消防活動ではなくやりたい消防活動を優先してしまうような人を制御することができる人が全国に何人いるのでしょうか。
今回の事件で亡くなった二人はあくまでも被害者でありますが、火災の被害者なのか、消防組織の被害者なのか、現場指揮の被害者なのかはわかりません。ご冥福をお祈りいたします。