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犯人捜しさえ無意味になる組織──今治市消防本部・書類改ざん事件の本質

今治市

消防職員の誰一人として疑問を抱かないほど“自然な”出来事
書類改ざんはただの“日常動作”である。
書類改ざんやパワハラが“日常的”である
“思考する者が淘汰される仕組み”が完成
「誰がやったのか」は問題ではない

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はじめに|一人ではできない「改ざん」という罪

今治市消防本部で起きた「パワハラによる公務災害申請書類の改ざん」は、あまりにも“よくある話”として扱われがちだ。
メディアは事実を淡々と伝え、「上司が把握していた内容と違っていたから書き換えた」という言い分も、そのまま載せて終わった。

しかし、すでに前回の記事で指摘した通り、この改ざんは「個人の判断による突発的なミス」などでは断じてない。

 本稿では、さらに一歩踏み込んで、この「書類改ざん」という行為がいかに組織構造に深く根ざした現象であるかを、私の知る現場の空気を交えて記録しておきたい。

これは今治市だけの話ではない。全国、どこでも起こっている。
そしてそれは、消防職員の誰一人として疑問を抱かないほど“自然な”出来事として処理されている。


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第1章:「一人の判断」では絶対に成立しない

まず、冷静に考えてほしい。

この書類改ざんという行為は、本当にたった一人の職員が、独断でやったことなのだろうか?

そんなはずはない。
むしろ実際の現場では、以下のような“複数のステップ”が存在する。

  1. そもそも「この内容は都合が悪い」と“気づいた者”がいる
  2. それを「こうすれば変えられる」と“提案した者”がいる
  3. 実際に書き換える作業を“実行した者”がいる
  4. 書き換えられた内容を“確認し黙認した者”がいる
  5. その事実を“見ていた者”が複数いる
  6. それを“あとから聞いた者”がまた数人いる

つまり、「改ざんが行われた」という時点で、少なく見積もっても数名以上の関与と黙認があるのが通常なのだ。関与があるといえば大げさに聞こえるかもしれない。知っていたといえば受け入れてもらえるだろうか。書類の改ざんが行われたことは知っていたが何とも思わなかった人が数十人いるのだろう。

それでも「一人がやりました」ということで処理される。
責任の所在が個人に押し付けられ、「処分して終わり」という形式だけが整う。

だが、その背後にいた全員はその後も変わらず勤務を続けている。

この現象を、単に「不正」や「隠蔽」と呼ぶのは生ぬるい。
それはもはや「組織内ルーチンの一部」であり、**日常的に繰り返されている“調整行為”**として、完全に文化化しているのだ。

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第2章:「毎朝明るくなって、毎晩暗くなる」のと同じように行われる改ざん

消防本部という組織において、書類改ざんは「イレギュラー」ではない。
もっと言えば、それは「非常事態における対応」でもなければ、「失敗を隠す手段」でもない。

それは、ただの“日常動作”である。

朝になれば空が明るくなるように、
夜になれば空が暗くなるように、
消防本部ではパワハラが行われ、
その記録は書き換えられ、
報告書は提出され、
誰からも疑問の声は上がらない。

その「自然さ」こそが、何より恐ろしい。

報道された今治市消防本部のケースも、「またか」という程度に受け止められて終わってしまう可能性がある。
だが、忘れてはならない。

その書類の一文一文が、
本来であれば誰かの救いになり、
誰かの立場を証明する唯一の材料であり、
誰かの人生を支えるはずの記録だった。

それが、組織の都合によって“調整”される。
本来の事実が、「言い過ぎ」「誤解」「配慮不足」という言葉に変換され、
文章はなめらかに整えられ、
書類の中から“痛み”が取り除かれる。

そして誰もが言う。「落ち着いてよかった」と。

この構造のなかでは、真実が語られる余地は最初から存在しない。


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第3章:誰も疑問を抱かない組織に、優秀な人は残らない

そしてもうひとつ、現場にいて強く感じたことがある。
それは、こうした書類改ざんやパワハラが“日常的”であることに、誰一人として違和感を覚えていないという事実だ。

驚くほど誰も声をあげない。
「仕方ない」「そういうもんだ」「どうにもならん」──
そんな言葉で、すべてが流される。

もちろん、一度は違和感を覚えた者もいたはずだ。
「それはおかしい」と思った人もいたかもしれない。
だが、その人は、組織の中で浮いた。
やがては無力感に打ちのめされ、自ら口を閉ざすか、去っていった。

つまり、“思考する者が淘汰される仕組み”が完成している

残るのは、「気にしない人間」か、「考えない人間」だけだ。
それが、今の多くの消防本部の実態だろう。優秀な人材が去り、無能が残る:消防組織の深刻な人材流出問題

筆者は以前の記事で「優秀な人が去り、無能が残る」と書いた。
しかし、今ではそれすら甘い評価だったのかもしれないと感じている。

優秀・無能という軸では語れない。
むしろ、「正義感がある人間」や「人間としての感覚がある人間」が、
この環境では生き残れないのだ。


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第4章:問いを無効化する構造に私たちはどう向き合うか

「これは誰がやったのか?」

書類改ざんという事象を目の前にして、真っ先に浮かぶのはこの問いである。
しかし、それはあまりに無力だ。

なぜなら、「誰がやったのか」は問題ではない。
実際には、「誰がやってもおかしくない構造」が、既に出来上がっているからだ。

誰がやっても問題視されず、
誰がやっても咎められず、
誰がやっても「まあ仕方ない」で済まされる。

これは「事件」ではない。
「現象」であり、「構造」であり、「日常のシステム」である。

だからこそ、個人の責任を問うことは無意味にすら思えてくる。

それでも、記録は必要だ。

なぜなら、このまま放置されれば、
「書類は整えるもの」「報告は都合のよい言葉で書くもの」という“文化”が、
日本中の消防組織に根を張り、
正義の発芽を阻んでしまうからだ。

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